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2022年5月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[4]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [4]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

第4回  近現代  ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立まで

19世紀フランスのモロッコ進出

1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まるモロッコの主権も危機に脅かされ、ヨーロッパ列強の争いに巻き込まれていきます。

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1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、イスーリーの戦いで敗れるなど、ヨーロッパの圧力下、次第に戦争に破れるようになりました。

1912年モロッコは「フェズ条約」により、アラウィー朝はフランスの保護領になります。また鎖国政策の中で唯一外交を許されたタンジェは、23年間国際管理下になりました。フェズ条約により、モロッコの実権はフランスとスペインが握り、アラウィー朝は存在するものの、実態は植民地に他ならなかったのでした。

この時期フランス人L.リヨテが初代総督になります。フランスによるモロッコ統治を完成させた彼は首都をラバトに定めました。

モロッコの女性たち
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ベルベル勅令が発端となったナショナリズム

モロッコのナショナリズムが組織的な政治運動として現れるきっかけとなったのは、フランス保護領下で発せられたのが、悪名高き「ベルベル勅令」です。
これはアラブ人の多く住む都市部と山岳部のベルベル人居住地を区別するものでした。ラバト、カサブランカ、フェス、メクネスなどの重要都市と、ベルベルの山岳地帯を、これら都市部との接触をなるべく遠ざける方法です。

これはアラブ人をシャリーア、ベルベル人を慣習法で裁判を行う分割統治でした。
(いわゆるバラバラ勅令)

ベルベル慣習法は結局フランスの法制度に編入するものであるため、これによりアラブ、ベルベルの双方からなるアイデンティティは崩れることなり、国内から反発を呼ぶものになったのです。

マラケシュのスパイス
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この頃から、イスラム法学者、知識人、エリートの中から反仏運動が盛んになり始め、1933年にはアラール・ファーシー、ムハンマド・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えた。しかしながら彼らは活動中逮捕幽閉され、一時期モロッコの独立運動はリーダー不在の混迷した時期を迎えました。

第二次世界対戦中モロッコはナチスドイツに降伏し共和制が崩れた時期がありましたが、フランスはすぐ奪回します。
また。大戦中にはルーズヴェルトとスルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) が会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めました。

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スルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) とは

フランスから独立を勝ち取ったモロッコの国民的英雄である。アラウィー朝モロッコの第26代,28代スルターン、初代国王。
ラバトのムハンマド5世大学、カサブランカのムハンマド5世国際空港はムハンマド5世にちなんでそれぞれ命名された。一時はスルタンの座を追われ、マダカスカルに亡命しながらも国民の人望を集め、1956年見事にモロッコを独立に導いた建国の父でもある。

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モロッコ王 ムハンマド5世
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第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で独立運動が過熱するなか、第四共和制はナショナリズムを鎮圧することはできませんでした。植民地側は妥協案として、共同主権を提言しましたが、これはモロッコの完全独立を目指す側から拒絶され、ますます火に油を注ぐことになります。

モロッコの独立の達成

ナショナリズムの高揚の最中、フランスに敵視されたムハンマド・ベン・ユースフはマダガスカルに国外追放され傀儡政権となります。このことはモロッコ人の反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至りました。

ラバトにあるムハンマド5世廟
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しかしながら、フランスのインドシナ戦争の敗戦した事で、1955年に彼は復権し、翌年にモロッコ独立を達成しました。
またスペイン地区、タンジェ地区の主権も回復されました。
ムハンマド・ベン・ユースフはスルタンから王に改称、ムハンマド5世アラウィー朝13代として、モロッコの立憲君主制国家再建に取り組みます。





2018年8月19日

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歴史的な餓死者が出た毛沢東の「大躍進」

(こんなことはちょっと書きたくなかったのですが、いろいろ考えて伝えることにしました。。。。。何ていうか本当にひどい国ですねぇ。一言で言えば目茶目茶に食糧を吸い取ったのですね。真面目に呆れています。)

毛沢東は中国共産党をソ連に並ぶ社会主義国家にした。

その為の政策の一つが「大躍進」と言われ、

「私有財産の否定」の思想に基づき家庭での食事の代わりに、

「公共食堂」なるものに置き換え、

生産・商品に至るまで公有化を図るものだった。

しかしながらその三年間に及ぶその政策は、

4500万人(一説には8000万人)という、

中国史上最大の餓死者を生み出し大失敗に終わる。

農作物は買い上げ目標に基づき国家中枢権力に、

暴力的に吸い上げられ、その結果農民の食糧がつき、

食べ物に欠乏した人々は樹木の皮を食べ尽くし、

挙句の果ては死体を掘り起こして人肉を食べるという

惨状目を覆うものとなった。

そして穀物買い上げ目標を達成するために

役人の暴力がはびこり、

生きるために自己保身の嘘が当たり前のことになった。

毛沢東の行った狂気じみた政策は、

断じてソ連型の社会主義建設ではなく、

マルクス・レーニン主義ではなく、

弱者救済のプロレタリア革命ではなく、

明らかに暗黒の全体主義とよぶべきものだった。


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1949年 北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催されました。
この会議では新国家の国号を「中華人民共和国 (People's Republic of China )」とし、毛沢東が主席に就任することが決議されました。
また、北平を北京に改称し、南京から遷都することになりました。
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言します。そして同年重慶が陥落し、蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやりました。

共産党は政権を取ってから、情報と真理を独占し、中国の伝統的価値基準も前面否定しました。
それからすべての文化芸術団体は毛沢東を称え、マスコミは全力で彼や共産党が偉大で英明であるかというニュースを伝えました。

1956年 毛沢東の発動した高経済指標により、政府による穀物吸い上げ量があまりに多く、この頃より農村には大量の餓死者がでていました。
1958年 毛沢東は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として農業と工業の大躍進政策を発動します。
1959年 彼の狂気じみた考えを修正するため、「廬山会議」で大躍進批判が提出されると、毛はたちまち開き直り、修正するどころか前の誤った政策を推し進め、農民を餓死さえた政策を3年の長きに渡って推し進めたのでした。
(ちなみに毛沢東はヒトラー、スターリンに続く「世界三大大量殺戮者」の一人である。)


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1959年~1961年に毛沢東が推進した「公共食堂」 
農家ごとに食糧を分配することは私有財産を保有する隙を与えることになるとして、大規模な食堂 を建設した。

(続く)

出典:
『毛沢東大躍進秘録』
楊継縄著(元新華社通信高級記者)