2018年10月15日

中国・チベットの歴史に学ぶ【4】


国家への忠誠心が飢餓を生む
著者の楊継縄氏によれば、当時の各省の飢饉の度合いは、その省の毛沢東政治に対する求心力の度合いによって異なったという。求心力の強い省ほど飢饉の打撃は強く、弱い省ほど飢饉は軽く、死亡率も低くかったのである。

例えば飢饉の度合いが低かったのは、辺境のウイグル自治区1.567%であり、内蒙古自治区は0.94%、チベット自治区も低かった。いずれも漢民族の幹部による政治的求心力が低い地域である。
(しかしながら少数民族の問題は、現在まで極めて不幸な差別や独立自治という別の問題を孕んでいる。)

大量の食糧が輸出されていた
1960年1月農民が大量に餓死していたときに、党中央は食糧の放出を考えないばかりか、国家の食糧在庫を引き続き増やそうと腐心していた。餓死者がもっとも多かったこの年に、国には数千万トンの食糧在庫があったにもかかわらず、それを放出して人々を救おうとしなかった。ちなみに公共食堂での配給は一日一人あたり100グラム程度であり人間が到底生きていける量ではなかった。もし国が食料倉庫を開放していればかなりの飢えは防ぐことができた。

そもそもこの国は中国共産党が成立する前は、食糧の自給自足ができたのである。国民の幸せをここまで破壊したことは許しがたい大罪である。

またこの飢餓が深刻な時期に、中国では大量の食糧が輸出されていたという。1957年の計算によると、500万トンの穀物があれば、2450万人が一年間食べるのに十分であった。それなのに、一番被害が深刻な1960年には、272.04万トンが輸出されていた。輸出されていたのは穀物だけではなく、油や卵、肉、果物など当時非常に貴重な食糧も大量に輸出されていたのである。

文化大革命で悪魔の復活
「大躍進」の失敗により毛沢東に対する反対勢力は拡大した。しかしながら彼に捨て身の諫言をした人間たちが一次的に巻き返したものの、文化大革命(1966年から1976年まで。1977年に終結宣言。)では大量の粛清が行われ、あっと言う前に失脚した。この文革で毛沢東のカリスマ性と悪魔性が復活し、約2000万人が犠牲になったと言われる。この中国共産党の悪いところは一重に「暴力の肯定である。

昔の中国は康熙帝のように、子供の数で払う人頭税を、家の戸数毎に支払う税制に変え、税金を安くしたような尊敬すべき皇帝もいたという。しかしながら中華人民共和国の発足により偉大なる孔孟の精神は失われたのである。


<<出典>>
『毛沢東大躍進秘録』
楊継縄著(元新華社通信高級記者)

『常識ではあり得ない中国の裏側』
陳破空(在米民主化運動リーダー)


毛沢東時代の中国史はこれで終わりとなります。
次回はチベット自治区の歴史考察ですが、
しばらくお休みいたします。




2018年9月15日

中国・チベットの歴史に学ぶ【3】

『rara ブランドジュエリー販売のお知らせ』
身につける人をいつも災いから守り、不幸を遠ざけるお守りです。上品で光沢のある銀のアクセサリーが、オフィスや外出の時にあなたに幸せを運ぶでしょう♪
 画像をクリック 
rara-1.jpg

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
みなさん、経済繁栄や豊かさの神様を大切にしましょう。例えば鳳凰・火の鳥に毎日感謝して繋がりを大事にしましょう。ちなみに私はラーラの護符は大切に持ち歩いております。
★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★


未だに掲げられた天安門のこの画像を見る度におぞましい気持ちになります。 ↓↓↓↓
いったい中国人のモラルとはなんなのか全く理解に苦しみました。引き続き毛沢東時代の中国史になります。
Dscn8125_m.jpg


強制買付で飢える農村

中華人民共和国の発足以来、食糧の欠乏は突出した問題であった。国の行政力を用いて工業化を加速させる一方で、都市の食糧の需要は増えた。
そして毛沢東の指導のもと中央政府は計画経済のもとで全ての資源や食糧は政府の厳密な支配下に置いていた。
必要な食糧は全て国家が供給する。農民が食べる分量も国の了承がいり、一軒一軒が食糧帳簿をもち、食糧切符がなければマーケットで一口も得ることはできなかった。

国家機関によって厳格に支配された農民は弱者であり、「買い上げ任務を遂行せよ」という号令は巨大な力を発揮し政府は農民から無制限に搾取した。

農民の飢えを信じない党

「現在の食糧問題は主として心理状態であり、実際には決して食糧が足りないのではない。河南ではまだ公社の整頓が終わらず、整頓が終われば50億キロの食糧がでてくるていう。これ程豊作なのになぜ彼らは隠蔽するのか。これは心のあり方の問題だ。」

大飢饉の最中、これは当時の党中央上層部の思惑を述べた言葉である。毛沢東は食料の不足を信じていないし、農民が飢えていることも信じていない。
所有権さえ調整すれば食糧は来ると考えていた。

公共食堂が作られた所以だか、現在社会主義の労働力には大きな無駄があるとし、家事労働から解放され、働きにでる人口が三分の一増加すると考えた。
ひとたび食糧供給制がはじまり、公共食堂が中国各地に作られてから、家庭で食事を作る人口を、なるべく外で働く人口に振り分けたため、明らかに自然な状態は壊れ、家庭の温かみのある団らんの食事が消され、農村の生産量は破壊された。

党幹部は農村から食糧を買い上げる目標が達成されないと、農民が食糧を隠しているからだとして、役人を使ってあれこれ調べだした。
しかも食糧を隠しているだけで役人が暴力で殺してしまい、鍋や鎌を所有しごはんを炊くことも、盗み喰いも禁止された。

飢えた農民が夜中にこっそり野草を煮て飢えを満たすことを許さない、鍋や鎌は製鉄工場で融かされ家で煮炊きを許さない、民衆が飢えて歩けないのに杖をつくことを許さない、農民を牛馬よりひどく扱い人間性のかけらも無い時代だった。

こうして毛沢東の大躍進という大誤算は農民の災難を拡大したのだった。

<<出典>>
『毛沢東大躍進秘録』
楊継縄著(元新華社通信高級記者)

『常識ではあり得ない中国の裏側』
陳破空(在米民主化運動リーダー)

2018年8月19日

中国・チベットの歴史に学ぶ【2】

『rara ブランドジュエリー新作販売のお知らせ』
宇宙的な神秘感のあるデザインのプレーンリング。
 画像をクリック 
top_rara2018_ring.jpg

歴史的な餓死者が出た毛沢東の「大躍進」

(こんなことはちょっと書きたくなかったのですが、いろいろ考えて伝えることにしました。。。。。何ていうか本当にひどい国ですねぇ。一言で言えば目茶目茶に食糧を吸い取ったのですね。真面目に呆れています。)

毛沢東は中国共産党をソ連に並ぶ社会主義国家にした。

その為の政策の一つが「大躍進」と言われ、

「私有財産の否定」の思想に基づき家庭での食事の代わりに、

「公共食堂」なるものに置き換え、

生産・商品に至るまで公有化を図るものだった。

しかしながらその三年間に及ぶその政策は、

4500万人(一説には8000万人)という、

中国史上最大の餓死者を生み出し大失敗に終わる。

農作物は買い上げ目標に基づき国家中枢権力に、

暴力的に吸い上げられ、その結果農民の食糧がつき、

食べ物に欠乏した人々は樹木の皮を食べ尽くし、

挙句の果ては死体を掘り起こして人肉を食べるという

惨状目を覆うものとなった。

そして穀物買い上げ目標を達成するために

役人の暴力がはびこり、

生きるために自己保身の嘘が当たり前のことになった。

毛沢東の行った狂気じみた政策は、

断じてソ連型の社会主義建設ではなく、

マルクス・レーニン主義ではなく、

弱者救済のプロレタリア革命ではなく、

明らかに暗黒の全体主義とよぶべきものだった。


mou.JPG

1949年 北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催されました。
この会議では新国家の国号を「中華人民共和国 (People's Republic of China )」とし、毛沢東が主席に就任することが決議されました。
また、北平を北京に改称し、南京から遷都することになりました。
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言します。そして同年重慶が陥落し、蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやりました。

共産党は政権を取ってから、情報と真理を独占し、中国の伝統的価値基準も前面否定しました。
それからすべての文化芸術団体は毛沢東を称え、マスコミは全力で彼や共産党が偉大で英明であるかというニュースを伝えました。

1956年 毛沢東の発動した高経済指標により、政府による穀物吸い上げ量があまりに多く、この頃より農村には大量の餓死者がでていました。
1958年 毛沢東は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として農業と工業の大躍進政策を発動します。
1959年 彼の狂気じみた考えを修正するため、「廬山会議」で大躍進批判が提出されると、毛はたちまち開き直り、修正するどころか前の誤った政策を推し進め、農民を餓死さえた政策を3年の長きに渡って推し進めたのでした。
(ちなみに毛沢東はヒトラー、スターリンに続く「世界三大大量殺戮者」の一人である。)


kou.JPG
1959年~1961年に毛沢東が推進した「公共食堂」 
農家ごとに食糧を分配することは私有財産を保有する隙を与えることになるとして、大規模な食堂 を建設した。

(続く)

出典:
『毛沢東大躍進秘録』
楊継縄著(元新華社通信高級記者)

2018年7月29日

中国・チベットの歴史に学ぶ【1】

『rara ブランドジュエリー新作販売のお知らせ』
宇宙的な神秘感のあるデザインのプレーンリング。
 画像をクリック 
top_rara2018_ring.jpg

「チベット自治区」  なぜあの国が不幸を背負ったのか

最近私は良書を引き寄せるのか、ここ数日手にした本もチベットや中国共産党の闇を暴いた勇気ある正しい内容ばかりでした。その良書をご紹介しつつ、チベット自治区と中国の歴史から学んでいきたいと思います。

以前からチベット自治区の歴史や社会事件に興味があり、関連ニュースを調べていましたが、今は中国のチベット監視が強いのか、チベットの中でおきていることが分かりにくくなっています。
この国は年々入国がきびしくなり、外国人の自由な旅行ができません。旅行の際には、その期間に同行するガイド、乗用車、ツアー日程等の提示がいります。

このチベット自治区は中国共産党との独立運動のなかで、信じられない数の方が虐殺された国です。アジアは仏教やヒンズー教などの信仰が根付き平和な国が多いのに、なぜチベットだけが未だに大きな不幸を背負っているのでしょう。

何が言いたいかといいますと、あれだけ痛ましい犠牲者が出たにもかかわらず、チベットは完全な独立は無理だったのです。
習近平政権のなかで情勢は少し落ち着いたでしょうが、まだ何もかも厳しい監視下にあるのでしょう。

蒼天の美しいチベット。
そこは人類の希望の地になるはずだったのに。。。


為政者によって国民の幸不幸は決まる

チベットを説明する前に、まず諸悪の根源たる毛沢東に始まる中国共産党の歴史に触れねばなりません。
中国は、自給自足ができる国でしたが毛沢東の「大躍進」という大失策のせいで、歴史的な大飢餓が蔓延しました。

・南京大虐殺の犠牲者数:30万人
・文化大革命の犠牲者数:2000万人
・大躍進の飢饉による餓死者数:4000~5000万人
  ※大躍進の失策による餓死者は一説によると8000万人とも言われています。

このことについては次回にご説明いたします。

<<出典>>
『毛沢東大躍進秘録』
楊継縄著(元新華社通信高級記者)

『常識ではあり得ない中国の裏側』
陳破空(在米民主化運動リーダー)