原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[4]
原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ [4]
Primordial spirit
- African modern history / present history - Morocco
第4回 近現代 ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立まで
19世紀フランスのモロッコ進出
1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まるモロッコの主権も危機に脅かされ、ヨーロッパ列強の争いに巻き込まれていきます。
1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、イスーリーの戦いで敗れるなど、ヨーロッパの圧力下、次第に戦争に破れるようになりました。
1912年モロッコは「フェズ条約」により、アラウィー朝はフランスの保護領になります。また鎖国政策の中で唯一外交を許されたタンジェは、23年間国際管理下になりました。フェズ条約により、モロッコの実権はフランスとスペインが握り、アラウィー朝は存在するものの、実態は植民地に他ならなかったのでした。
この時期フランス人L.リヨテが初代総督になります。フランスによるモロッコ統治を完成させた彼は首都をラバトに定めました。
モロッコの女性たち
ベルベル勅令が発端となったナショナリズム
モロッコのナショナリズムが組織的な政治運動として現れるきっかけとなったのは、フランス保護領下で発せられたのが、悪名高き「ベルベル勅令」です。
これはアラブ人の多く住む都市部と山岳部のベルベル人居住地を区別するものでした。ラバト、カサブランカ、フェス、メクネスなどの重要都市と、ベルベルの山岳地帯を、これら都市部との接触をなるべく遠ざける方法です。
これはアラブ人をシャリーア、ベルベル人を慣習法で裁判を行う分割統治でした。
(いわゆるバラバラ勅令)
ベルベル慣習法は結局フランスの法制度に編入するものであるため、これによりアラブ、ベルベルの双方からなるアイデンティティは崩れることなり、国内から反発を呼ぶものになったのです。
マラケシュのスパイス
この頃から、イスラム法学者、知識人、エリートの中から反仏運動が盛んになり始め、1933年にはアラール・ファーシー、ムハンマド・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えた。しかしながら彼らは活動中逮捕幽閉され、一時期モロッコの独立運動はリーダー不在の混迷した時期を迎えました。
第二次世界対戦中モロッコはナチスドイツに降伏し共和制が崩れた時期がありましたが、フランスはすぐ奪回します。
また。大戦中にはルーズヴェルトとスルターン ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) が会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めました。
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スルターン ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) とは
フランスから独立を勝ち取ったモロッコの国民的英雄である。アラウィー朝モロッコの第26代,28代スルターン、初代国王。
ラバトのムハンマド5世大学、カサブランカのムハンマド5世国際空港はムハンマド5世にちなんでそれぞれ命名された。一時はスルタンの座を追われ、マダカスカルに亡命しながらも国民の人望を集め、1956年見事にモロッコを独立に導いた建国の父でもある。
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モロッコ王 ムハンマド5世
第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で独立運動が過熱するなか、第四共和制はナショナリズムを鎮圧することはできませんでした。植民地側は妥協案として、共同主権を提言しましたが、これはモロッコの完全独立を目指す側から拒絶され、ますます火に油を注ぐことになります。
モロッコの独立の達成
ナショナリズムの高揚の最中、フランスに敵視されたムハンマド・ベン・ユースフはマダガスカルに国外追放され傀儡政権となります。このことはモロッコ人の反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至りました。
ラバトにあるムハンマド5世廟
しかしながら、フランスのインドシナ戦争の敗戦した事で、1955年に彼は復権し、翌年にモロッコ独立を達成しました。
またスペイン地区、タンジェ地区の主権も回復されました。
ムハンマド・ベン・ユースフはスルタンから王に改称、ムハンマド5世アラウィー朝13代として、モロッコの立憲君主制国家再建に取り組みます。
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