名著に学ぶ『ギャーナヨーガ 』(12)
← Etosha National Park is a national park in northwestern Namibia of Southern Africa.こんにちは。今日は薄曇り、気温は一週間前より10度下がっています。急に涼しくなりましたね。


| Sun | Mon | Tue | Wed | Thu | Fri | Sat |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | ||||
| 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
| 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
2021年9月 5日
← Etosha National Park is a national park in northwestern Namibia of Southern Africa.

2021年7月 4日

今月もスワーミー・ヴィヴェーカナンダの名著『ギャーナヨーガ』(知識のヨーガ)』を学んでいきましょう。
『ギャーナヨーガ』
2021年6月 2日

味覚変化?
こんにちは。6月に入り昼間はずいぶん気温が上がり千葉県は真夏日のよう。最近は暑くて冷房をつけておりますが、皆さまはいかがおすごしでしょうか。
先日実家で、両親が食後に私の血糖値を測ってくれました。私は、正常値の範囲内ですが、かなり高めでした。親が心配して、お菓子の食べすぎや糖質を控える話をしてくれました。
実は大の甘党で甘いものは無限に食べれるタイプなのです。
熟達したヒーラーは病気を光で治癒しますが、私はまだまだヒーラーの入門者レベルで、まだ食生活の影響を受けます。太り過ぎは骨を弱くし関節にも負担がかかりますから偏食は要注意なのです。
ところが血糖値を実家で測った数日後、急に味覚に変化が起きまして、甘いものが殆ど興味がなくなりました。
味覚変化?まさかのコロナ?
いえいえ、その代わりお煎餅やポテチが美味しくて代わりにバリバリいけますから違うと思います。
無限に食べれたケーキが興味が無いという。。。
ただただびっくりしてしまいました。なんで甘いものが殆ど興味がなくなのでしょうか!?
誰か答えを教えて下さい。
『ギャーナヨーガ』
『アートマン』(P254-255より引用)
...すべての無知な者たちが宇宙としてながめているところのものは、実際には存在してはいません。では、みなさんや、私や、私たち一同がながめているこれらいっさいのものは一体何なのでしょうか。単なる自己催眠です。そこにあるのはただ、唯一の実在、無限なる者で、永遠に祝福された一者のみです。その実在の中で、われわれはこれらすべてのさまざまの夢をゆめみるのです。
...それは、あらゆるものから、その名と形をとり去ったものなのです。テーブルからその形をとり去ってごらんなさい。その名をとり去ってごらんなさい。あとにのこるのがそれです。ヴェーダーンティストはそれを彼とか彼女とはよびません。彼とか彼女とかいうのは虚構、人間の頭脳の妄想です。魂には男女の別はありません。
...物質的なのは名です、形です。身体です。そしてそれらが、このいっさいの差異をつくるのです。もし名と形というこのふたつの差異をとり去るなら、全宇宙は一つです。そこには二つはありません。どこに行っても一つです。みなさんと私は一つです。そこには自然もなければ神も宇宙もありません。あのひとつの無限の実在があるだけ、そこから、名と形によってこれらすべてのものが作り出されるのです。


2021年4月 4日
【5月の『名著に学ぶ』はお休みさせて頂きます】
...「私は死もおそれも知らない。私は階級も信条も持っていない。私は父も母も兄弟も持たない。友も敵も持たない。なぜなら私は絶対の、実在・知識、そして至福であるから。私は至福にみちた者である。私は至福にみちた者である。私は徳にも悪にも、また幸と不幸のいずれにもしばられない。巡礼や書物や儀式は決して私をしばることはできない。私は飢えもかわきもしない。肉体は私のものではない。私は肉体にやってくる迷信やおとろえにも支配されはしない。私は絶対の、実在・知識、そして至福である」
...これが、われわれがとなえるべき唯一の祈りである、とヴェーダーンタは言います。これが、目標にいたる唯一の道なのです。われわれは神聖である、と自分にも、また他のあらゆる人びとにも言ってきかせることです。われわれがこれをくりかえしつづけて行くうちに、力がやってきます。最初は口ごもる者もしだいにつよくなって声量はくわわり、ついには真理がわれわれのハートを占領し、血管をながれて全身に浸透するのです。光が輝きをますにしたがってまどわしはきえるでしょう。無知からくる重荷は、一つまた一つと消滅するでしょう。そしてやがて、他のいっさいのものはきえて、ひとり太陽だけが光り輝くときがくるでしょう。

2021年3月 8日
こんにちは。ローズガーデン自然生活です。2021年2月 5日
2020年12月11日
... .われわはあらゆるものを、主ご自身でおおわなければなりません。にせの楽観主義によってではなく、悪に対し盲目になることによってではなく、ほんとうに一切のものの中に神を見ることによって、であります。このようにして、われわれはこの世界を見すてなければならないのです。そして世界が見捨てられたら何が残りますか。神です。
... 一切のものの中に、神をごらんなさい。生の中に、そして死の中に、幸福の中に、そして不幸の中に、主はひとしく、やどっておられます。世界は、主でみたされているのです。目をひらいて、彼をごらんなさい。これが、ヴェーダーンタがおしえているところです。
... われわれが実に長い間思ってきた世界、われわれが実に長い間しがみついてきた世界は、われわれが自分で創造したにせの世界なのです。それをおすてなさい。目をひらいて、そのような形では世界は決して存在していなかったのだ、ということをごらんなさい。それはゆめ、マーヤーだったのです。存在していたのは主ご自身だったのです。子供の中に、妻の中に、そして夫の中にいるのは彼です。よいものの中に、そしてわるいものの中にいるのは彼です。彼は罪の中に、そして罪びとの中におられます。彼は生の中に、そして死の中におられます。


2020年11月 1日
... このマーヤーはいたるところにあります。それはおそろしいものです。それでもわれわれは、それの中ではたらかなければなりません。世の中がすっかりよくなってから働き、そして至福をたのしもう、などと言っている人の成功率は、ガンガーのほとりにすわって、「河の水が全部海に流れこんでしまったらわたろう」と言っている男のそれと同と程度です。道はマーヤーとともにあるのではありません。それにさからっているのです。これは、学ばなければならないもう一つの事実です。自然は言います、「行って森の中にすめ」と。人は言います、「私は家をつくろう、そして自然とたたかおう」と。そして彼はその通りにします。
... 人格神、この宇宙の支配者兼創造者とよばれる、マーヤーすなわち自然の、支配者の観念は、これらヴェーダーンタの観念の最後のものではありません。それはほんのはじまりです。この観念は、成長に成長をかさね、ついにヴェーダーンティストは、いままでそとにたっていると思っていた彼は、ほんとうはうちにいる彼みずからである、ということを見いだすのです。彼は自由な者であるのに、限定によって、自分はしばられている、と思っていたのです。
2020年9月 2日
... われわれは、自分がうちに持っているものを外に見るのです。赤ん坊は、うちにどろぼうを持っていないから、外にどろぼうを見ません。すべての知識がそうです。世界の悪とそれのすべての罪のことをはなしなさるな。自分がまだ悪を見なければならないことを、お泣きなさい。自分がいたるところに罪を見なければならないことを、お泣きなさい。そしてもし世をたすけたいと思うなら、それをとがめてはいけません。それを、それ以上よわくしてはいけません。なぜなら、何が罪なのでしょう、何が不卒で、何がこれらすべてのものなのでしょう。よわさの結果以外の何ものでもありません。
... 世界はそのようなおしえによって日ましに弱体化されつつあるのです。人びとは子供時代から、彼らはよわくて罪びとである、とおしえられています。彼らに、彼らはすべて、この上もなくよわい者のように見えている者たちさえも、栄光にみちた不死の子なのである、ということをお教えなさい。ごく小さな子供のときから、積極的な、つよい、たすけになる思想を彼らの頭脳にそそぎこむようになさい。みなさん自身、人をよわめ、まひさせるようなものでない、右のような思想を十分にとりいれるようになさい。
... みなさん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。うたのように、それを夜昼心の中にひびかせなさい。そして死のときには、「私は彼である」と宣言なさい。それが真理です。世界の無限の力はみなさんのものです。みなさんの心をおおっていた迷信を、おいはらいなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかしめざめ、たちあがり、ゴールに達するまでとまるな。

2020年8月10日
...もっとも無情なハートも、ときどき他の生きものへの同情を感じます。この見せかけの個人性は実は妄想である、この見えているだけの個人性にしがみつくのはいやしいことである、などときかされるとおそれる人、まさにその人がみなさんに、極度の自己犠牲がすべての道徳の中心である、と言うでしょう。では何が完全な自己犠牲なのですか。
...それはこの目に見えている自己の放棄、すべての利己性の放棄のことです。この「私に」と「私の」という観念、すなわちアハンカーラとママターは過去の迷信の結果であって、このいまの自己が消えてしまえばしまうほど、真の自己がはっきりとあらわれてきます。これがほんとうの自己放棄、すべての道徳上の教えの中心であり、根底であり、要点なのであります。そして、人がそれを知る知らぬにはかかわらず、全世界は大なり小なりそれを実践しつつ、ゆっくりとそれにむかってすすんでいます。
...ただ、人類の大多数は、それを無意識のうちにおこなっています。彼らにそれを、意識しておこなわせよ。この、「私に」と「私の」は、真の自己ではなく、一つの限定にすぎないのだ、ということを知りつつ、犠牲をささげるがよい。しかし背後にある、かの無限の実在の片鱗――すべてである、かの無限の火の一つの火花がつまり、そこにあらわれている人なのです。無限者が彼の本性なのです。






