2023年10月 8日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[1]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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← 当時のリビアの国旗

原初の精神  -アフリカ史- リビア[1] 
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

primordial spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [1] Gaddafi, proud of being a nomad

今回より何回かに分けて北アフリカのリビアをご紹介します。
最初イスラム教の殺伐とした歴史にあまり興味は抱きませんでしたが革命家のカダフィ大佐(カッザーフィー)の生涯だけはご紹介できればと思い、特集を組ませていただきました。

西側諸国はカッザーフィー(カダフィ大佐)を「中東の狂犬」と呼んで独裁者呼ばわりして恐れていますが、実は彼は手厚い社会福祉政策で、天国リビアを作った人です。
リビアの国民の全てを愛し、リビアの国民の幸せのために尽くした業績は素晴らしいものがあります。

ロシアのプーチン大統領も同じですが、西側メディアの作ったカッザーフィー(カダフィ大佐)のイメージというのはまったくの嘘で、本当の姿を報道していません。

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1967年に カッザーフィーは、革命によりアフリカで最も貧しい国の一つであるリビアを受け継ぎました。
そして彼が暗殺される前にはこの国をアフリカで最も豊かな国へと変えていたのでした。
しかも当時のリビアは、最も低い幼児死亡率、全アフリカで最も長い平均余命を誇っていたと言われています。

第一回目は古代リビアを取り上げ、カダフィが活躍する背景の時代を説明します。前置きが長くなりますが、彼が生まれた時代背景を知ることはカッザーフィーを知ることでもあります。

◎リビア国(アラビア語: دولة ليبيا‎, Dawlat Lībyā、英語: State of Libya)、通称リビア(リービヤー、ليبيا, Lībiyā、Libya)は、北アフリカに位置する共和制国家。
東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリ。

トリポリ城:世界遺産レプティスマグナの遺物など貴重な資料が保管されています。


<古代リビア>

     「リビアにはすべてのものがある」 歴史家 ヘロドトス

古代リビアは、内陸の歴史や住民については不明なことが多いらしく、数多くの壁画や岩盤彫刻が残っており、それらが世界遺産になっているそうです。

紀元前2000年ごろ、フェニキア人を皮切りにローマ帝国、バンダル人、アラブ、トルコなどの外国人勢力が海岸線沿いに侵入しましたが、内陸の砂漠では遊牧民や原住民が、自由に移動して暮らしていたようです。

一言でいえば、古代リビアは、地中海沿岸からわたってきたフェニキア人が植民都市を築いた頃からの、長い歴史を持つ国といえます。

7世紀にイスラームが台頭し、アラビア半島からアラブ軍が侵攻して以降、内陸部にもイスラムが浸透していきました。

16世紀からオスマン帝国の支配が続き、20世紀初頭に地中海を隔てて対岸に位置するイタリアが侵攻し、植民地としました。第二次世界大戦中に、イギリスとフランスの共同統治を受けましたが、1951年に連邦制の王国として独立しました。

この1951年トリポリタニア、キレナイカ、フェッザーン連合王国ができるまでは、リビアは統一政権を持ったことがありませんでした。

リビアの海岸地域にフェニキア人が入り込んだ紀元前2000年ごろは、古来より交易にたけていたフェニキア人はベルベル人よりアフリカの金、銀、象牙などを安く仲介して仕入れていました。


<トリポリタニア (今の首都トリポリ)>

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紀元前7世紀ごろ、トリポリ、レプティス・マグナ、サブラタの3都市がフェニキア人によって建設され、フェニキア本国が征服されるとカルタゴの支配下に入った。ポエニ戦争によってカルタゴが滅ぶとローマ帝国の支配下に入り、属州アフリカの1地域となった。

トリポリは、ローマの属州(アフリカ州)になりつつも生き残ります。そして、トリポリが自立し繁栄したことは、アフリカ出身の初のローマ皇帝セプティミウス・セウェウスが、選出されたことからもうかがえます。
彼の出身地であるレプティス・マグナは、皇帝の威厳を示す凱旋門や劇場などの建築物があり、世界遺産の古代都市で有名です。

1510年にスペインによって征服され、1530年からマルタ騎士団の支配下に入りました。
1551年にオスマン帝国が征服し、西トリポリ州の州都に定められます。
西トリポリ州は1711年から1835年まで、「カラマンリー朝」がオスマン帝国の宗主権下に政権を立てたほかは、1911年にイタリアによって占領されるまで、オスマン帝国の直轄統治下に置かれました。

🟠トリポリの説明(「リビアを知るための60章 第二版」(塩尻和子著)より)

地中海の砦
3000年を生きた都

「トリポリはトリポリタニア三都市のなかでは、歴史を通じて生き延びてきた街である。紀元前一二世紀ころにレバノンからやってきたフェニキア人が、オエアという植民都市を建設して以来、三〇〇〇年を超える長い年月を生き抜いてきた砦の町でもある。フェニキア人、都市国家カルタゴ、ローマ帝国、アラブの侵入とイスラーム化、ビザンティン帝国、大小のイスラーム王朝、スペイン、マルタ島のヨハネ騎士団、オスマン帝国の支配、イタリアの侵略、リビア人のイドリース王をいただく連合王国、そしてカッザーフィーの革命、と地中海世界を中心に、東と西の勢力が交代にやってくるという東西の交流点でもあった。」

1951年 - 1963年:リビア連合王国
1963年 - 1969年:リビア王国
1969年 - 1977年:リビア・アラブ共和国
1977年 - 2004年:社会主義人民リビア・アラブ国
2004年 - 2011年:大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
2011年 - 2013年:リビア
2013年 - リビア国


■イタリア(ナチスドイツ)の過酷なリビア支配

20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地にしました。1912年ローザンヌ条約でオスマントルコ帝国は、サヌーシー教団のリビアに手を焼き、正式にリビアをイタリアに譲渡します。
ところがイタリアのリビア支配は、オスマン帝国の支配とは比較にならないほど過激で、1922年にはムッソリーニが、かつてのローマの属州であったリビアを取り戻すという、リビアのレコンキスタを宣言します。

彼の命令を受けた最高司令官グラツィアーニは、イタリアの法律にも国際法にも縛られずにリビアの反イタリア勢力を殲滅させることについての許可を要請し、ムッソリーニがこれに同意したと伝えられる。
植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人は激しいゲリラ活動を繰り広げました。
グラツィアーニはただちに反対派の制圧に着手した。イタリアはもともと自国が貧しく、リビアを占領した目的がイタリアの過剰農民人口の与えるためであり、リビア人の土地を略奪してイタリアの入植者に与えるという方針を採ったために、リビア人から激しい抵抗を受けました。
特にフェザーン地方での抵抗は激しく、リビアの完全平定は1932年にまでもつれこみました。
この対イタリア(ナチスドイツ)の対戦の中で、リビアの人口の4分の1が減ったといわれています。


■リビアの英雄の一人 ムフタール(砂漠のライオン)

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思想:イスラーム神秘主義
活動:反イタリア抵抗運動
所属:サヌーシー教団

<反イタリア抵抗運動>
1911年、伊土戦争の勃発によりリビアに戦火が及び、10月2日にイタリア海軍艦隊がトリポリに現れ、オスマントルコ軍が降伏を拒否したため、イタリア艦隊が砲撃を開始。3日間に渡る砲撃により街は破壊・占領された。サヌーシー教団はオスマン軍に協力してイタリア軍と戦い、ムフタールも戦闘に参加し、以降20年に渡りイタリア軍と戦うきっかけとなりました。

ムフタールはイドリース王によりリビア司令官に任命され、対イタリア運動の指揮を執ることになりました。ムフタールはキレナイカの地形と砂漠戦に熟知しており、1924年までに各地の反イタリア・ゲリラを指揮下に置きます。ゲリラ戦の際にはイタリア軍の補給ルートと通信施設を集中的に攻撃し、イタリア軍を追い詰めていきました。

1925年4月、イタリア軍の反撃により勢力が減退すると戦術を変更し、ベドウィンや隣国のエジプトからの支援を取り付け反撃を始め、1926年のベンガジでの戦闘では敗北するもののイタリア軍に甚大な損害を与えた。反イタリア勢力は、1927年から1928年にかけて勢力を拡大し、1,000人以上のイタリア兵を殺害しました。、ムフタールはスロンタでの戦闘で負傷し、イタリア軍に捕縛されました。
ムフタールはクルアーンの一節、「私たちは神のものであり、私たちは神に還されなければならない」を唱え、殺されてしまいます。

20年近くに渡り抵抗運動を指揮したムフタールは、「リビア独立の父」としてカダフィとともに、尊敬の対象となっています。

ムフタールの所属した神秘主義教団サヌースィー教団の精神的指導の伝統は、今でもリビア人気質に大きな影響を与えている。サヌースィー教団の活動によって、リビアの人々は、個々の部族の利害関係によって対立するのではなく、遊牧民の伝統と文化を守りつつ、自立した共存社会を形成してきたからであります。

しかしながら、サヌーシー王朝も停滞の時期がきます。
リビアは、オスマン帝国とナチスドイツに蹂躙されてきた、戦火の絶えない国でした。
そうした時代背景の中で、カダフィは若いころから政治に関心を持ち、大きな改革の使命を抱いた人としてリビアに現れたのでした。

・参考図書
「リビアを知るための60章 第二版」(塩尻和子著)明石書店
「カダフィと民族主義 イスラム主義の本質を探る」(最首公司著)ホーチキ出版

次回に続く