2024年2月 1日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[3]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


flag.jpgのサムネール画像原初の精神  -アフリカ史- リビア[3]
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

Primordial Spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [3] Gaddafi, proud of being a nomad

■大佐のリラクゼーション中に空爆が

リビア爆撃(リビアばくげき)は、1986年4月15日にアメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーの暗殺を目的とした攻撃であった。
作戦自体は成功したものの、カッザーフィーの暗殺に失敗した上、アメリカは国際的非難を浴びることとなった。また、リビア政府はこの報復として1988年12月にパンアメリカン航空103便爆破事件を起こしている。
民間人15名とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女ハナが死亡したとリビアは発表し大規模な追悼が行われた。

カッザーフィーは幸い休止に一生を得たが、実はこの時偶然にも地下壕で腰痛治療のために横になり、リラクゼーション中だったそうだ。これは明らかにカッザーフィーの暗殺を目論んだ攻撃であったが、彼の居所と考えられる地下壕にも、ベドウィンテントには、かすりもしなかったのである。
muammar-gaddafi-2892159_1280.jpgのサムネール画像
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先のリビア爆撃で生後一五ヶ月になる養女を亡くしたカッザーフィーの報復か?88年の米パンナム機爆破事件が発生。
リビア政府の関与の下で実行されたテロ事件として国際問題となり、被害を受けたパンアメリカン航空(パンナム)がその後に経営破綻する遠因にもなった。

1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否したため、米政府は79~06年、リビアをテロ支援国に指定。国連安保理は制裁を科していた(1969年09月27日)

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遺跡 レプティスマグナ

■カッザーフィーのアラブ風の素敵な邸宅

カッザーフィーの邸宅は外部のものものしい警護状態とは打って変わって、内部には二面のテニスコート、サッカー場、庭園に芝生も整備されていて、快適な居住空間になっていた。 サフィーヤ夫人を始めカッザーフィーの家族は、高級な家具が備わった二階建ての大きな邸宅に住んでいた。この邸宅の近くにカッザーフィーは大テントを張って遊牧民の伝統的な暮らしを再現させ、公賓の接遇の際に使っていた。 

テントの外側は当時のリビアを象徴する緑一色に塗られていたが、内側はアラブ式に色とりどりのキルトで飾られていた。そこにはカッザーフィーの著書『緑の書』から抜粋された言葉が刺繍されていたといわれる。

国民を幸せにした為政者だからこそ、彼の住まいがいかにアラブ風の豪華な家だからといって、誰も嫉妬しないでしょう。カダフィファンの私としては、ぜひ当時の彼の生活を再現し、拝見してみたい気持ちとなりますが。。。


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■大量核兵器撤廃宣言

国連制裁解除とリビアの対外イメージを上げるために、カッザーフィーは2003年末には「大量核兵器撤廃」を宣言し査察団の受け入れを行った。
おそらくイラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れていたとも言われる

アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。
そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。
「大量核兵器撤廃」を宣言により、一石三鳥ともいえる大きな外交的成限が二〇数年ぶりに解除果をあげることになった。
二〇〇四年二月にはアメリカ市民のリビア渡航制限され、ついで四月にはイラン・リビア制裁法が解除される(イランだけは制裁が残り、イラン制裁法となった)など、各種の制裁が一気に解除緩和に向かったのである。