2024年4月 4日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[4]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


flag.jpgのサムネール画像原初の精神  -アフリカ史- リビア[4] 
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

Primordial Spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [4] Gaddafi, proud of being a nomad

カッザーフィーが政権を取ってからのリビアの社会福祉政策は驚くべきものがあります。
国民のすべての不幸が解消されているかのような、大変ありがたい政治であります。



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<社会福祉政策> 

1.電気代全国民無料 
2.融資には金利がなく、リビアの銀行は国営で、全国民に対して与えられる融資は、法律で金利ゼロ・パーセント。 
3.リビアでは住宅を所有することが人権と見なされている。 
4.リビアでは全ての新婚夫婦が、新家族の門出を支援するため、最初のアパート購入用に、政府から60,000ディナール(50,000ドル)を受け取る。
  →結婚した夫婦には約500万円を支給
5.リビアでは教育と医療は無償。カダフィ以前、識字率はわずか25パーセントだった。現在、識字率は83パーセント。 
6.リビア人が農業の仕事につきたい場合には、農園を始めるための、農地、家、器具、種、家畜が、全て無料で与えられる。 
7.リビア人が必要な教育あるいは医療施設を見いだせない場合、政府が外国に行くための資金を支払い、さらには実費のみならず、住宅費と自動車の経費として2,300ドル/月、支払われる。 
8.リビア人が自動車を購入すると政府が価格の50パーセントの補助金を出す。 
9.リビアの石油価格は、リッターあたり、0.14ドル。 
10.リビアに対外債務は無く、資産は1500億ドルにのぼるが、現在世界的に凍結されている。 
11.リビア人が、卒業後就職できない場合は、本人が雇用されているかのごとく、特定職業の平均給与を、職が見つかるまで国が支払う。 
12.リビア石油のあらゆる売上の一部がリビア全国民の銀行口座に直接振り込まれていた。 
13.子供を生んだ母親は、5,000ドル支払われる。 
   →子供を産むと母親に約50万円支給。
14.リビアでは、パン40斤が0.15ドル。 (10円程度)
15.リビア人の25パーセントが大学の学位を持っている。 
16.カダフィは、この砂漠国家のどこででも自由に水が得られるようにするため、大人工河川計画として知られる世界最大の灌漑プロジェクトを遂行した。
17.ガソリン代は1リットル約10円
18.医療費無料
19.男女平等差別禁止
20.リビアでは「家を持つことが人権」とさている。


まさしく天国リビアです。この政策のどこが暴君なのでしょうか?

このような政策ができる理由は、石油の売り上げの一部を国民に還元しているからです。リビアは石油の埋蔵量はアフリカ最大であり、
それでいて人口が少ないので、一人当たりのGDPはアフリカの上位クラスだったそうです。
「資源の呪い」と言われて外国に資源を吸い取られるだけで国民に何も還元しない他のアフリカ諸国とは大違いです。
しかもこうしたリビアの大改革をIMFや世銀などの国際的サラ金機関からは金を一切借りず経済成長を成し遂げているのです。


■「石油は産油会社のものでなく、産油国のものである」

・騙されていたリビア

王政時代から、リビアの原油は「ワックス(蝋分)が含まれているから」として、1バーレルあたり5セントの値引きをしたり、リビアのコフラ地区灌漑事業を進める条件に、5%を税金で払うというリビア国王に押し付けていました。そうした不当な方法でリビアを騙していたのが、「メジャー」と呼ばれる欧米の大手石油会社(モービル、エッソ、テキサソ、オキシデンタル石油など)である。
リビア原油は、硫黄分の少ない世界有数の良質油とされているが、メジャーはこの点については一切無視していたようです。

リビア革命後に、カッザーフィーの革命政権は「ワックス分の値引き解除」「低硫黄分の加算」など5項目を要求し、リビア原油価格の値上げを要求します。
世にいう「石油戦争」の始まりです。

石油戦争カダフィのいう「新しい論理」、つまり「石油は産油会社のものでなく、産油国のものである」という論理は、国連第二十五回総会で「天然資源に対する主権は国家の領土主権の一部である」という決議を導きだしました。そして4月2日、メジャーはリビア政府の要求を飲んで、石油値上げに同意したのでした。

リビア革命政権が世界史のうえでも注目される理由は、実にこの点にある。リビアの革命的論理"に基づく石油値上げ交渉の勝利は、世界の石油の流れを、メジャー主導型から産油国主導型に変えたのである。

石油戦争の結果、リビアの原油価格は2倍になりました。このリビアの勝利が産油国を勇気づけ、脱メジャー支配の先駆けとなったのでした。
「12.リビア石油のあらゆる売上の一部がリビア全国民の銀行口座に直接振り込まれていた。」
先のカッザーフィーの政策の一つである12番は、こうした石油戦争によりもたらされたといえます。

ダイヤモンドが大量に採れても、アフリカの人は貧困のどん底から解放されない搾取の仕組みは、ダイヤモンドの利益が国民に還元されず外国資本企業の懐に入るからです。カッザーフィーは他のアラブ石油産出国や中国共産党と異なり、石油で得た利益を国民に分配していたのでした。


■独裁者ではなく、民主主義者

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それに独裁といってもその国家運営は次のように、国民が直接参画できる民主的ものだったのです。

欧米マスコミが"カダフィの軍事独裁制"と表現するリビアは、実際は世界で最も民主的な国家でした。
カダフィの独特な直接民主主義の下で、伝統的な政府機構は解散され、廃絶され、権力は様々な委員会や議会を通して、直接国民のものだった。
リビアは非常に分権的であり"ミニ自治州"が存在し、各自の地域支配し、石油収入や予算資金をいかに配分するかを含め、様々な決定をすることができたそうです。
(リビア民主主義の三つの主要な組織は、基礎人民会議と、県地区人民会議と、全国人民会議である)


■「ジャマーヒーリーヤ」について

引用<アフリカ日本協議会 -Africa Japan Forum->(http://www.arsvi.com/i/2lby201106.htm)HPより

「やがてカッザーフィーは極めて特異な政治思想を掲げるようになる。
彼は著書『緑の書』の中で、代議制民主主義、政党政治、階級独裁のすべてを特定の「代表」や集団による独裁であるとして否定、多数決原理すらも「少数者に対する独裁の強要」としてしりぞけた。そして最底辺の基礎人民会議から全国人民会議に至る人民会議を組織し、全人民が基礎人民会議に参加して合議・合意により政治的意思決定を行う「人民直接民主制」によってのみ、真の民主主義が実現されると主張したのである

人民会議の設立は1977年の「人民権力確立宣言」以降本格化され、国名も「社会主義人民リビア・アラブ・ジャマーヒーリーヤ」に改称された。「ジャマーヒーリーヤ」とは「大衆の共同体」を意味するカッザーフィーの造語である。1979年にはカッザーフィーがすべての公職を辞任、リビアは彼の観念によれば、「国家元首も首相、政府も存在しない」世界でただ一つ真の民主主義が実現された理想社会となったのである。」

http://www.arsvi.com/i/2lby201106.htm


■カッザーフィーが亡くなる(2011年リビア内戦)

隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生する。
国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と反カッザーフィー派の蜂起を招き2011年8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退する。反政府勢力により首都全土が制圧され政権は事実上崩壊します。

10月20日午前8時国民評議会がカダフィ勢力最後の拠点となったスルトに攻撃を開始。戦闘は約1時間半で終了し制圧される。その際2か月間スルトに潜伏していたカダフィ大佐は南アフリカ人などで構成された護衛が乗った数十台の車列を組み逃亡を試みますが、フランス空軍とアメリカ空軍の空爆を受けます。車列を離れたが反カダフィ勢力により身柄を拘束。その後暴行された怪我が元で亡くなったそうです。

2024年3月12日

原初の精神 予告編

原初の精神 予告編
Primordial Spirit - Modern and contemporary African history - Advance Notice

今月は東北の仙台に滞在中のため「原初の精神」を更新できず、予告編とさせていただきます。
(申し訳ございません。。)

原初の精神は、リビアのカダフィ大佐はあと2回、その後も帝国主義を打倒しアフリカ諸国の独立に貢献した、活動家や政治家の生涯を特集します。

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【今後の予定】

カダフィ大佐  (リビア) ※あと2回
トーマス・サンカラ (ブルキナファソ)
エンクルマ (ガーナ)
ハイレ・セラシエ皇帝  (エチオピア)
ネルソン・マンデラ (南アフリカ)
マーチン・ルーサーキング牧師 (アメリカ) 
イスラム神秘主義、スーフィズムについて
名著に学ぶ (スワミ・リヴェーカナンダ師など)
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Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar
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Francis Kwame Nkrumah
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Thomas Isidore Noël Sankara
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Haile Selassie
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Nelson Rolihlahla Mandela
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Martin Luther King Jr.
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時折、ヨーガの名著に学ぶを復活させつつ
このようなテーマで流れていく予定です。

アフリカの独立に貢献された偉人の方々は心より敬意を感じる方ばかりです。
エンクルマ大統領なんて、頭がよくて超エリート。
ハイレ・セラシエ皇帝なんて写真を見ただけでお優しそうな方で世界中にファンがいるのではないでしょうか。エチオピア帝国がすさまじく強かったのは彼の力です。

様々な国と民族、文化、宗教が混在し、魅力溢れるアフリカに、皆さまがご関心を持つきっかけになれれば幸いです。

2024年2月 1日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[3]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

Primordial Spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [3] Gaddafi, proud of being a nomad

■大佐のリラクゼーション中に空爆が

リビア爆撃(リビアばくげき)は、1986年4月15日にアメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーの暗殺を目的とした攻撃であった。
作戦自体は成功したものの、カッザーフィーの暗殺に失敗した上、アメリカは国際的非難を浴びることとなった。また、リビア政府はこの報復として1988年12月にパンアメリカン航空103便爆破事件を起こしている。
民間人15名とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女ハナが死亡したとリビアは発表し大規模な追悼が行われた。

カッザーフィーは幸い休止に一生を得たが、実はこの時偶然にも地下壕で腰痛治療のために横になり、リラクゼーション中だったそうだ。これは明らかにカッザーフィーの暗殺を目論んだ攻撃であったが、彼の居所と考えられる地下壕にも、ベドウィンテントには、かすりもしなかったのである。
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先のリビア爆撃で生後一五ヶ月になる養女を亡くしたカッザーフィーの報復か?88年の米パンナム機爆破事件が発生。
リビア政府の関与の下で実行されたテロ事件として国際問題となり、被害を受けたパンアメリカン航空(パンナム)がその後に経営破綻する遠因にもなった。

1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否したため、米政府は79~06年、リビアをテロ支援国に指定。国連安保理は制裁を科していた(1969年09月27日)

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遺跡 レプティスマグナ

■カッザーフィーのアラブ風の素敵な邸宅

カッザーフィーの邸宅は外部のものものしい警護状態とは打って変わって、内部には二面のテニスコート、サッカー場、庭園に芝生も整備されていて、快適な居住空間になっていた。 サフィーヤ夫人を始めカッザーフィーの家族は、高級な家具が備わった二階建ての大きな邸宅に住んでいた。この邸宅の近くにカッザーフィーは大テントを張って遊牧民の伝統的な暮らしを再現させ、公賓の接遇の際に使っていた。 

テントの外側は当時のリビアを象徴する緑一色に塗られていたが、内側はアラブ式に色とりどりのキルトで飾られていた。そこにはカッザーフィーの著書『緑の書』から抜粋された言葉が刺繍されていたといわれる。

国民を幸せにした為政者だからこそ、彼の住まいがいかにアラブ風の豪華な家だからといって、誰も嫉妬しないでしょう。カダフィファンの私としては、ぜひ当時の彼の生活を再現し、拝見してみたい気持ちとなりますが。。。


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■大量核兵器撤廃宣言

国連制裁解除とリビアの対外イメージを上げるために、カッザーフィーは2003年末には「大量核兵器撤廃」を宣言し査察団の受け入れを行った。
おそらくイラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れていたとも言われる

アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。
そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。
「大量核兵器撤廃」を宣言により、一石三鳥ともいえる大きな外交的成限が二〇数年ぶりに解除果をあげることになった。
二〇〇四年二月にはアメリカ市民のリビア渡航制限され、ついで四月にはイラン・リビア制裁法が解除される(イランだけは制裁が残り、イラン制裁法となった)など、各種の制裁が一気に解除緩和に向かったのである。


2023年12月 2日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[2]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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原初の精神  -アフリカ史- リビア[2]
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

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- Modern and contemporary African history - Libya [2] Gaddafi, proud of being a nomad

前回はリビアという国がオスマン帝国と、イタリア(ナチスドイツ)に蹂躙されてきた戦火の絶えない国でした。そうした戦乱の歴史を背景として、カダフィことカッザーフィーは大きな改革者として生まれました。
この緑の無地の旗は、彼の作った大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国 の国旗です。


リビアの改革を成功させた英雄であるにも関わらず、地位や名誉にもこだわらず自らを生涯「大佐」と名乗り、民族衣装をまとい、また遊牧民の生活にこだわり、訪問先の外国でもテントを張って野営していたそうです。そうしたユニークな庶民性や人間味が多分にある人でした。

テント生活が好きなんてよほどアラブ民族を誇りとして、伝統を大切にしていた方だったのでしょう。

この記事を書くに当たりまして参考とした良書がこちらです。文章も綺麗で読みやすいです。
クーデター時の状況も克明に描かれているよう思います。随分熱血漢な顔をされていますね。

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中を開くと直筆のサインが!!
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■概要: カッザーフィーはどんな人だったのか

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ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي‎, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日 - 2011年10月20日)は、リビアの軍人・革命家・政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)の元首。

中部リビアの砂漠の遊牧民ベドウィンの子として生まれ、士官学校に入学、ナセルのエジプト革命の影響を受け、自由将校団を結成して革命運動を指導する。
1969年9月、リビア革命と言われる「無血」クーデターによって王制を倒して27歳で権力を掌握し軍事政権をつくった。

政権を獲得後、2011年に至るまで42年にわたり長期独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。

その豊かな石油収入を背景とした強硬な外交政策と、舌鋒鋭く欧米や国連を批判する姿から、危険な独裁者と見なされ「中東の狂犬」とよばれ警戒されていた。

民族衣装をまとい、遊牧民テントを好み、外遊時は遊牧民テントを持参して野営するなど、ユニークな存在として広く知られた。

その著書『緑の書』3巻(1976~79)では、資本主義でも社会主義でもないという意味での第三の普遍理論を目ざしています。

日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。1993年から2009年まで1リビア・ディナール紙幣や50ディナール紙幣に肖像が使用されていた。

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◆称号:大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者及び革命指導者
الشقيق القائد ومرشد الثورة

リビアのモスク

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■カッザーフィーの生い立ち

カッザーフィーは1,942年春にスルトの南方40キロメートルの砂漠の中に遊牧民のテントで生まれました。彼はアラブ化したベルベル人の貧しい遊牧民のカダファ族に生まれたと言われています。
カッザーフィーの父はラクダやヤギ、ヒツジを放牧し、時折それを地中海沿岸の町やフェッザーン地方の内陸都市の市場に売ることで、生計を立てていたそうです。

遊牧民の子供は差別されることも多かったようですが、カッザーフィーは勉学に優秀で尊敬されていました。

両親は遊牧民の大半がそうであるように、読み書きができなかったのですが、子供たちに伝統的な昔話や英雄物語を話して聞かせることも多かったそうです。

リビアの近代史は、オスマントルコ帝国やイタリアによって蹂躙されてきた歴史でした。

そのためこのような部族の歴史を受け継いだカッザーフィーは、早くから政治活動に目覚めていたのでした。
彼は週に一回巡回してコーランを教える教師から、イスラムの教えを学んでおり、彼らからリビアの英雄について学んでいたのでしょう。

カッザーフィーは若いころか政治に興味を示すとともに、士官学校に入学するとらエジプトのナセルに倣って、地下組織、自由将校団を結成し、停滞したサヌーシー朝王家打倒を計画します。
その頃から自分の右腕になるような人物を慎重に選んでいたのでした。

■無血クーデターのリビア革命

士官学校では4か月のイギリス留学があり、陸軍隊長になる訓練が施されました。この時期、イギリスでは中東やアフリカ労働者がごみ収集や道路の清掃など、卑しい職業をさせられていることに、大きな影響を受けました。
彼は執拗な人種差別をうけ、それがのちに、リビア革命を引き起こす引き金になったといえるようです。

この時期リビアはサヌーシー王朝のイドリース国王の元でひどく疲弊していました。

1969年にムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)が、イドリース1世 (リビア王)を無血クーデターで廃位し、実権を握った「リビア革命」が起きます。

1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は、廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」とした。

同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会、(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた) が共和国の最高政治機関となることが宣言されました。

1976年には毛沢東語録に倣い、自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。(毛沢東の統治を倣っていたとは少し残念ですが)


<コーランに依拠した『緑の書』>

第三国際理論(Third International Theory)もしくは 第三普遍理論(Third Universal Theory)とは、リビアで実施される政体についての理論で、カッザーフィーが1970年代初頭に提唱したものである。部分的にイスラム社会主義とアラブ民族主義に影響されたこの理論は、資本主義をもはや誤りであることが証明されたイデオロギーであると述べ、第三世界諸国のために、資本主義および共産主義の代替となる新たな普遍的体制を提案している。また第三国際理論の哲学的基礎の多くはコーランに依拠している。

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<大リビア設立>

そして1977年、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。



2023年10月 8日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[1]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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← 当時のリビアの国旗

原初の精神  -アフリカ史- リビア[1] 
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

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- Modern and contemporary African history - Libya [1] Gaddafi, proud of being a nomad

今回より何回かに分けて北アフリカのリビアをご紹介します。
最初イスラム教の殺伐とした歴史にあまり興味は抱きませんでしたが革命家のカダフィ大佐(カッザーフィー)の生涯だけはご紹介できればと思い、特集を組ませていただきました。

西側諸国はカッザーフィー(カダフィ大佐)を「中東の狂犬」と呼んで独裁者呼ばわりして恐れていますが、実は彼は手厚い社会福祉政策で、天国リビアを作った人です。
リビアの国民の全てを愛し、リビアの国民の幸せのために尽くした業績は素晴らしいものがあります。

ロシアのプーチン大統領も同じですが、西側メディアの作ったカッザーフィー(カダフィ大佐)のイメージというのはまったくの嘘で、本当の姿を報道していません。

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1967年に カッザーフィーは、革命によりアフリカで最も貧しい国の一つであるリビアを受け継ぎました。
そして彼が暗殺される前にはこの国をアフリカで最も豊かな国へと変えていたのでした。
しかも当時のリビアは、最も低い幼児死亡率、全アフリカで最も長い平均余命を誇っていたと言われています。

第一回目は古代リビアを取り上げ、カダフィが活躍する背景の時代を説明します。前置きが長くなりますが、彼が生まれた時代背景を知ることはカッザーフィーを知ることでもあります。

◎リビア国(アラビア語: دولة ليبيا‎, Dawlat Lībyā、英語: State of Libya)、通称リビア(リービヤー、ليبيا, Lībiyā、Libya)は、北アフリカに位置する共和制国家。
東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリ。

トリポリ城:世界遺産レプティスマグナの遺物など貴重な資料が保管されています。


<古代リビア>

     「リビアにはすべてのものがある」 歴史家 ヘロドトス

古代リビアは、内陸の歴史や住民については不明なことが多いらしく、数多くの壁画や岩盤彫刻が残っており、それらが世界遺産になっているそうです。

紀元前2000年ごろ、フェニキア人を皮切りにローマ帝国、バンダル人、アラブ、トルコなどの外国人勢力が海岸線沿いに侵入しましたが、内陸の砂漠では遊牧民や原住民が、自由に移動して暮らしていたようです。

一言でいえば、古代リビアは、地中海沿岸からわたってきたフェニキア人が植民都市を築いた頃からの、長い歴史を持つ国といえます。

7世紀にイスラームが台頭し、アラビア半島からアラブ軍が侵攻して以降、内陸部にもイスラムが浸透していきました。

16世紀からオスマン帝国の支配が続き、20世紀初頭に地中海を隔てて対岸に位置するイタリアが侵攻し、植民地としました。第二次世界大戦中に、イギリスとフランスの共同統治を受けましたが、1951年に連邦制の王国として独立しました。

この1951年トリポリタニア、キレナイカ、フェッザーン連合王国ができるまでは、リビアは統一政権を持ったことがありませんでした。

リビアの海岸地域にフェニキア人が入り込んだ紀元前2000年ごろは、古来より交易にたけていたフェニキア人はベルベル人よりアフリカの金、銀、象牙などを安く仲介して仕入れていました。


<トリポリタニア (今の首都トリポリ)>

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紀元前7世紀ごろ、トリポリ、レプティス・マグナ、サブラタの3都市がフェニキア人によって建設され、フェニキア本国が征服されるとカルタゴの支配下に入った。ポエニ戦争によってカルタゴが滅ぶとローマ帝国の支配下に入り、属州アフリカの1地域となった。

トリポリは、ローマの属州(アフリカ州)になりつつも生き残ります。そして、トリポリが自立し繁栄したことは、アフリカ出身の初のローマ皇帝セプティミウス・セウェウスが、選出されたことからもうかがえます。
彼の出身地であるレプティス・マグナは、皇帝の威厳を示す凱旋門や劇場などの建築物があり、世界遺産の古代都市で有名です。

1510年にスペインによって征服され、1530年からマルタ騎士団の支配下に入りました。
1551年にオスマン帝国が征服し、西トリポリ州の州都に定められます。
西トリポリ州は1711年から1835年まで、「カラマンリー朝」がオスマン帝国の宗主権下に政権を立てたほかは、1911年にイタリアによって占領されるまで、オスマン帝国の直轄統治下に置かれました。

🟠トリポリの説明(「リビアを知るための60章 第二版」(塩尻和子著)より)

地中海の砦
3000年を生きた都

「トリポリはトリポリタニア三都市のなかでは、歴史を通じて生き延びてきた街である。紀元前一二世紀ころにレバノンからやってきたフェニキア人が、オエアという植民都市を建設して以来、三〇〇〇年を超える長い年月を生き抜いてきた砦の町でもある。フェニキア人、都市国家カルタゴ、ローマ帝国、アラブの侵入とイスラーム化、ビザンティン帝国、大小のイスラーム王朝、スペイン、マルタ島のヨハネ騎士団、オスマン帝国の支配、イタリアの侵略、リビア人のイドリース王をいただく連合王国、そしてカッザーフィーの革命、と地中海世界を中心に、東と西の勢力が交代にやってくるという東西の交流点でもあった。」

1951年 - 1963年:リビア連合王国
1963年 - 1969年:リビア王国
1969年 - 1977年:リビア・アラブ共和国
1977年 - 2004年:社会主義人民リビア・アラブ国
2004年 - 2011年:大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
2011年 - 2013年:リビア
2013年 - リビア国


■イタリア(ナチスドイツ)の過酷なリビア支配

20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地にしました。1912年ローザンヌ条約でオスマントルコ帝国は、サヌーシー教団のリビアに手を焼き、正式にリビアをイタリアに譲渡します。
ところがイタリアのリビア支配は、オスマン帝国の支配とは比較にならないほど過激で、1922年にはムッソリーニが、かつてのローマの属州であったリビアを取り戻すという、リビアのレコンキスタを宣言します。

彼の命令を受けた最高司令官グラツィアーニは、イタリアの法律にも国際法にも縛られずにリビアの反イタリア勢力を殲滅させることについての許可を要請し、ムッソリーニがこれに同意したと伝えられる。
植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人は激しいゲリラ活動を繰り広げました。
グラツィアーニはただちに反対派の制圧に着手した。イタリアはもともと自国が貧しく、リビアを占領した目的がイタリアの過剰農民人口の与えるためであり、リビア人の土地を略奪してイタリアの入植者に与えるという方針を採ったために、リビア人から激しい抵抗を受けました。
特にフェザーン地方での抵抗は激しく、リビアの完全平定は1932年にまでもつれこみました。
この対イタリア(ナチスドイツ)の対戦の中で、リビアの人口の4分の1が減ったといわれています。


■リビアの英雄の一人 ムフタール(砂漠のライオン)

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思想:イスラーム神秘主義
活動:反イタリア抵抗運動
所属:サヌーシー教団

<反イタリア抵抗運動>
1911年、伊土戦争の勃発によりリビアに戦火が及び、10月2日にイタリア海軍艦隊がトリポリに現れ、オスマントルコ軍が降伏を拒否したため、イタリア艦隊が砲撃を開始。3日間に渡る砲撃により街は破壊・占領された。サヌーシー教団はオスマン軍に協力してイタリア軍と戦い、ムフタールも戦闘に参加し、以降20年に渡りイタリア軍と戦うきっかけとなりました。

ムフタールはイドリース王によりリビア司令官に任命され、対イタリア運動の指揮を執ることになりました。ムフタールはキレナイカの地形と砂漠戦に熟知しており、1924年までに各地の反イタリア・ゲリラを指揮下に置きます。ゲリラ戦の際にはイタリア軍の補給ルートと通信施設を集中的に攻撃し、イタリア軍を追い詰めていきました。

1925年4月、イタリア軍の反撃により勢力が減退すると戦術を変更し、ベドウィンや隣国のエジプトからの支援を取り付け反撃を始め、1926年のベンガジでの戦闘では敗北するもののイタリア軍に甚大な損害を与えた。反イタリア勢力は、1927年から1928年にかけて勢力を拡大し、1,000人以上のイタリア兵を殺害しました。、ムフタールはスロンタでの戦闘で負傷し、イタリア軍に捕縛されました。
ムフタールはクルアーンの一節、「私たちは神のものであり、私たちは神に還されなければならない」を唱え、殺されてしまいます。

20年近くに渡り抵抗運動を指揮したムフタールは、「リビア独立の父」としてカダフィとともに、尊敬の対象となっています。

ムフタールの所属した神秘主義教団サヌースィー教団の精神的指導の伝統は、今でもリビア人気質に大きな影響を与えている。サヌースィー教団の活動によって、リビアの人々は、個々の部族の利害関係によって対立するのではなく、遊牧民の伝統と文化を守りつつ、自立した共存社会を形成してきたからであります。

しかしながら、サヌーシー王朝も停滞の時期がきます。
リビアは、オスマン帝国とナチスドイツに蹂躙されてきた、戦火の絶えない国でした。
そうした時代背景の中で、カダフィは若いころから政治に関心を持ち、大きな改革の使命を抱いた人としてリビアに現れたのでした。

・参考図書
「リビアを知るための60章 第二版」(塩尻和子著)明石書店
「カダフィと民族主義 イスラム主義の本質を探る」(最首公司著)ホーチキ出版

次回に続く

2023年2月26日

タンザニア旅行記<予告編>激安バックパッカー大自然の旅


こんにちは。ローズガーデン自然生活です。

4月上旬2週間程タンザニアに渡航予定があり、その準備をしています。

皆様のおかけでやっと長年の夢を実現することができました。

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4/1はエチオピア航空で途中エチオピアのアジスアベバで乗継ぎ、約20時間のフライトになります。

タンザニアで有名な山のトレッキングを申し込みました。ツアー会社はマサイ族のマタタさんの会社です。

結果にこだわらず、勇敢に挑戦してこようと思います!!


マタタツアーズ


<タンザニア渡航のために準備したこと>

・イエローカード(黄熱病予防)
・ダイアモックス錠(高山病予防薬)

もう準備ばっちりです👍

安いのに居心地の良さそうな宿も見つけました。物価も安いし激安バックパッカーの私には有難い所です。

帰りは首都ダルエスサラーム(Dar es Salaam)にも寄って参ります。

タンザニアは雄大な大自然と野生動物がいっぱいです。

しかもあちらは赤道直下で平均気温が30度を超えています。

体力が持つかなあ。。。

今からすごくワクワクしています!!

帰ってきましたら諸々ご報告させて頂きますね。

それではまた再来月お会いしましょう。


ローズガーデン自然生活


2022年11月 5日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ最終回[3]ニコラスおめでとう

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原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ最終回[3]
ニコラスおめでとう!

Primordial spirit
- African modern history / present history - Uganda[3] 
Nicholas Opiyo, please accept my warmest congratulations!

※来月は「原初の精神」はお休みさせて頂きます。

ハーバード大学ホームページにウガンダニコラウス・オピヨ弁護士の紹介ページがあります。

内容が素晴らしいので抜粋を掲載させていただきます。

機械翻訳のため適宜分かる範囲で修正しましたが、誤訳がありましたら、何卒ご了承下さい。

【機械翻訳】


Fighting for human rights in riven land overseen by repressive regime

抑圧的な政権が監視する分断の地で、
人権のために戦う

危険にさらされている学者であり弁護士であるニコラス・オピヨは、ウガンダ内戦中に成長したことが彼の将来をどのように形作ったかを説明しています

ニコラス・オピヨが、1984年から1996年まで暴力的な反乱グループとヨウェリ・ムセベニ大統領の残忍な政府軍との間の内戦に巻き込まれたウガンダ北部の都市、グールでの初めの頃の人生を説明するのを聞くのは困難な事です。

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彼は、主要な反乱主義グループの1つである武将ジョセフ・コニーが率いる神の抵抗軍が、強制的な少年兵士をどのように広く使用したか、政府軍が後にエイズで死亡した家族のメンバーをどのようにレイプしたか、当局がどのように彼の村の住民を「死の罠」となった避難キャンプに強制したかを思い出します。彼は父親の拘留と拷問、髪の抵抗軍による妹の捕獲、「学校に行くために死体の上を歩く」ような時代のことを覚えています。

「それは私の不幸な子供の頃の経験でした」とオピヨは言った。「私は、人口を保護するはずの政府軍と反乱軍の両方による凶悪な人権侵害の最前線の証人として育ちました。」

そのような恐怖は、他人を絶望や暴力に変えたかもしれない。それはハーバード大学の危険にさらされている学者であるオピヨを法律に変えた。人権弁護士として、彼は不公正な選挙法に対するキャンペーン、集会の自由の制限、言論の自由と報道の自由の抑圧、LBGTQ +の権利の促進など、自国の公民権と政治的自由の擁護にキャリアを費やしてきました。

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12月、オランダ外務省は、公民権と自由の擁護と擁護に専念する個人や組織を表彰する毎年恒例の栄誉である2021年人権チューリップ賞をオピヨに与した。ハーグでの受諾式で、オピヨは、この賞は「私たちの仕事の課題を超えて、平和で公正で公正な社会のために戦い続ける」という彼の決意を強化したと述べた。
その仕事は生涯の使命でした。

危険にさらされている学者であり
弁護士のニコラス・オピヨ

(途中省略)

幼い頃から、オピヨは普通の人々の生活に変化をもたらしたいと知り、「脆弱で声なき人々のために」と言いました。少年時代のBBCを聞いて、彼は「世界情勢、時事問題、ニュース、現代的なことに興味を持つ」ようになり、ジャーナリズムを使って不正に光を当てるようになりました。

しかし、1994年いとこのノーバート・マオ(現在のウガンダ民主党の大統領)が、国が新しい憲法を作るのを助けることを目標に議会の最初の選挙に立候補したとき、オピヨの焦点は変わりました。
マオは負けました。「しかし、彼はとても明晰だった。彼はとても刺激的でした。私の世代の多くの人々が彼に魅了された」とオピヨは言いました。「彼は私たちのアイドル、ヒーローになりました。」

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いとこのマオが2年後に再び活動したとき、オピヨはパーソナルアシスタントとして働いていた。「彼は弁護士で、それ以来、私は弁護士になりたかった。私は従兄弟のマオのようになりたいと思い、貧しい人々が彼らの権利を守るのを助けるウガンダ法律協会の法的援助クリニックで働きたかったのでした。
それが私のターニングポイントでした。

オピヨはウガンダキリスト教大学に通い、学期の休憩中に法的研究と法的援助クリニックでの仕事と勉強のバランスを取りつつ、以下のようなさまざまなキャンパスの物事にも関与しました。

ウガンダクリスチャンでの最初の年の学生ギルドミンスターとして、彼は授業料を2倍にしようとしたときに、彼は大学に対する抗議を主導しました。彼はまた、全国高等教育評議会との会議を求め、妊娠中の未婚学生を解雇するという大学の慣行を終わらせるのを助けました。「大学を通して、私は私にとって大切な理由のために次々と人権闘争に関わっていました」と彼は言いました。「私は不正と戦い、大学管理者のハイハンドに立ち向かい、しばしば勝った。」

「私のすべての願いは、私が十分安全だと感じたらウガンダに戻ることです。...それが私が最も必要な所なのです。」

2006年に司法試験に合格した後、オピヨはリーガルエイドクリニックで働き続け、新しくオープンしたグル大学でパートタイムで教え始め、現在は平和と戦略研究所である平和と戦略研究センターの設立を支援しました。

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首都カンパラ


その後、彼はカンパラで国内の人権侵害を監視することのために働いた。2012年、彼は市民の自由の保護に専念する非営利団体である「Chapiter Four Uganda」を設立しました。この組織は、2012年に拷問を犯罪とする法律を可決する成功した努力を含む、さまざまなキャンペーンの原動力となっています。2014年、彼のグループは同性関係を犯罪化した国の反同性愛法を覆すのを助けました。

しかし、その仕事には費用がかかりました。オピヨは、見知らぬ人が彼の顔に唾を吐き、彼を「外国人の代理人」だと非難した事件を思い出しました。家族なかには彼を勘当し、キリスト教の弁護士は彼を全米弁護士会の事務局長の地位から外すために共謀する者もいました。

それでもオピヨは人権と法の支配に対する自らの信念に揺らぐことはなかった。彼は自分の家族に対して犯罪を犯した反乱軍司令官から身を守るのに何年も費やしました。
「この反乱軍の指導者も子供の頃に誘拐された」とオピヨは言いました。

◯以下、Wikipedia より補足:

(オピヨは、ウガンダ政府とジョセフ・コニーの神の抵抗軍との対立の最盛期に、ウガンダ北部のグールーで育ちました。
実は、オピヨの妹、友人や家族の多くは、奴隷、兵士、労働者として働くためにコニーの反乱軍に誘拐されたことがあったそうです。
オピヨはかつて、彼らが家で寝るのを恐れて、むしろ安全だった路上で寝たと告白しているそうです。これらすべての経験は、人権擁護に対する彼の情熱を形作りました。)

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時間が経つにつれて、彼の安全に対する脅威が高まりました。
警察は2020年12月22日にオピヨに降り、彼を目隠しし、マネーロンダリングの告発におり、オピヨを拘留しました。彼はカンパラ郊外の最高警備刑務所に送られました。
彼の逮捕は、市民社会に対する政府の取り締まりと、2021年の総選挙中の政府治安部隊による超法規的殺害の調査に反撃する彼のグループの力によって引き起こされた、と彼は述べました。(ムセベニは、投票不正行為の申し立ての中で6年目の5年間の任期に再選されるだろうと。)

しかし、刑務所の背後でさえ、彼の仕事は決して止まることはありませんでした。
わずか1週間拘留されたオピヨは、仲間の囚人に法的助言を提供し、最終的に68人の安全な釈放を助けました。国際的な圧力の中で、ウガンダ当局はオピヨに対するすべての告発を取り下げ、彼を釈放しました。
8ヶ月後、政府は彼の非営利団体を閉鎖し、そのアカウントを凍結し、オピヨは「より悪質なことを計画している」と恐れました。

オピヨは昨年秋、ハーバード・ケネディ・スクールのカー人権センターが主催するスカラーズ・アット・フェローとしてハーバード大学に到着し、ロイ・リラ・アッシュ民主ガバナンス・イノベーションセンター、ハッチンズ・センター・フォー・アフリカ&アフリカ系アメリカ人研究センター、エドモンド・Jからの追加支援を受けました。サフラ倫理センター、ここ数ヶ月間、彼は授業を受け、講演を行い、研究プロジェクトに取り組み、「大陸の研究関心」を持つ学生が自らを利用できるようにしてきた、とオピヨは言いました。

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しかし、ウガンダへの帰還は彼の未来です。「私のすべての意図は、私が戻るのに十分安全だと感じたらウガンダに戻ることです。私の仕事は本当にウガンダにある」と彼は言いました。「そこが私が最も必要とされているところです。」

彼の故郷では、オピヨは人々はより良い国のために変化を熱望していると述べました。
「私の希望は、国が民主主義の誕生の苦しみを経験し変化することを熱望していることです」と彼は言います。
「変化は近く、国はそのために良くなるだろう。人はそれを切望している。そして、私たちがそのために懸命に働き続ければ、ウガンダを民主的で公正で自由な国にすることができます。」

2022年10月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[2]ニコラスおめでとう

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原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[2]
ニコラスおめでとう!

Primordial spirit
- African modern history / present history - Uganda[2] 
Nicholas Opiyo, please accept my warmest congratulations!

2021年12月6日、ニコラス・オピヨ弁護士(Nicholas Opiyo)の受賞式で、人権チューリップのプレゼンテーションでの外務大臣ベン・ナペンによるスピーチの抜粋翻訳です。

機械翻訳のため読みにくい文書や誤訳がありますことご了承ください。

【原文】
オランダ政府ホームページ


【機械翻訳】

みなさん、こんにちは。

この特別な機会であるHumanRightsTulipの授賞式にようこそ。

受賞者を発表し、この美しい花をプレゼントすることは大きな特権です。

人権擁護家の仕事について考えると、不当のイメージが思い浮かびます...

...彼らが戦う虐待のうち...

...そして彼ら自身が直面している迫害...

...彼らが行う仕事のために、そして単に彼らが誰であるかのために。 

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これらのイメージは非常に強烈であるため、彼らの仕事がすべて改善していくことを忘れがちです。

人権擁護家の仕事は、医師、看護師、農民、消防士の仕事と同じくらい重要です。

医者と消防士がいなければ、私たちは持っているものを失う可能性があります...私たちの生活、私たちの家...

そして人権擁護家がいなければ、私たちは自分たちが何であるかを失います。

それが今日お話ししたいことです。 

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ニコラス・オピヨ

人権擁護家の仕事がなぜそれほど重要なのかについて...

それは私たちが持っているものに対する私たちの権利を保護するという理由だけでなく、不可欠です。そして、私たちが誰であるか。しかし、それは私たちを前進させるからでもあります。

(視聴者にはヌンカ・マスのビデオが表示されました)
彼がヌンカ・マスという人です。

人権擁護家の集り。それぞれに独自のストーリーがあります...そして、それらはすべて共有されたストーリーを持っています。

彼らは皆、母国ニカラグアでの不当と迫害に抗議しました。

彼らは皆、国を離れることを余儀なくされました...政府が彼らの仕事を不可能にしたので...そして彼らが彼らの命を失うことを恐れたので。

そして彼らは皆、衰えることなく仕事を続けました。

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ウガンダの風景

たとえば、ゴンザロ・カリオンは、人生の半分を人権のために戦ってきたが、すべてを捧げるよりも良いことは何も知らない。(すべてをささげてこれ以上価値のあることはない)

そして、同じことがウェンディ・フローレスにも当てはまります。ウェンディ・フローレスは、彼女が時々直面する攻撃的な反論にもかかわらず、これまで止めるすることを想像することはできません。

彼らは他の活動家と一緒に、コスタリカに亡命して仕事をしなければならないにもかかわらず、かけがえのない価値があることが証明された集団を形成します。

そこから、彼らはニカラグアへのサイバーブリッジを構築しました。

二方向に行く橋。

ヌンカ・マスは、ニカラグアにいる人権擁護家にトレーニングとアドバイスを提供しています。

そしてそこで起こっている虐待の詳細な報告を受け取ります。

たとえば、組織は400件を超える拷問やその他の人権侵害の事件に関する情報を収集し、それらについて5つの報告書を作成しました。 

しかし、彼らの成功は、すでに起こったことを記録することだけにありません。

それはまた、彼らが母国のためにより良い、より民主的な未来を準備している方法にもあります。

そのためには、証拠を集めることが不可欠です。

それが正義への第一歩だからというだけではありません。しかし、それはニカラグアに非常に必要とされている自信を与えるからです... 

彼らの声は、家庭でも世界中でも聞かれます。

そして、それがヌンカ・マスの 成功の鍵です。

集合的記憶を守る勇気ある人々の集り。

そして彼らは彼らの努力により成功しました。


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(途中省略)


その現実の中で、マリ・ダブティアンは毎日危険を感じる女性を助けます。

自宅で暴力を受けている女性。自分の夫の手により。 

たとえば、マルガリータは2人のロシア人の母親です。

夫がナイフで彼女を脅したとき、彼女は警察に行くことにしました。

しかし、彼らはただ彼女を嘲笑しました。彼女が話した役員は、それは深刻な状況ではないと言った。 

その後間もなく、彼女の夫は彼女を森に連れて行きました。

そして、斧で両手を切り落としました。

冷たい雪の中で保存されていた彼女の片方の手は、いくつかの複雑で痛みを伴う手術によって再び取り付けられました。

しかし、彼女はもう一方の手を完全に失いました。

マルガリータが経験したことは恐ろしいですが、彼女だけの話ではありません。

ロシアでは、女性に対する暴力は当たり前のことです。

国は家庭内暴力に満足しているように見えます。

2017年、家庭内暴力は、負傷者がいない場合、重大な犯罪から軽罪に格下げされました。それで、首を突き出すことのポイントは何ですか?

弁護士のMariDavtyanは、法廷でマルガリータ(のために代表で)話しました。

そして成功を収めました。マルガリータの夫は、彼がしたことで懲役14年の判決を受けました。

マルガリータは、マリが提起した多くの訴訟の1つにすぎません。

成功した結果が得られた事例。

彼女はそれらの多くを獲得し、それは強いメッセージを(暴力をふるった彼ら)に送るからです。

マルガリータの夫のような男性に。

そして、そのような暴力を防ぐのに十分なことをしていない政府に。

しかし、彼女が勝つすべての事例は、自己満足に対する勝利だからです。

(まともな感覚が)麻痺している人は、不正行為はとにかく罰せられないだろうと考えました。

マリは、彼女が話している女性が徐々に自信を深めているのを見てきました。

バイオニックな手で勇敢にテレビに定期出演し、本を書いたマルガリータ自身も含めて...

...他の女性を刺激を与えるために...

...そして、彼らが不正について話すのに必要な力を彼らに与えます。彼女がマリから与えられた強さ。 

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(観客にはニコラス・オピヨのビデオが見せられました)

どうすれば本当に(こうした暴力を)改善していくことができますか?

ニコラス・オピヨは若い頃からその質問について熟考してきました。

子供の頃、彼は毎晩父親と一緒にBBCを聴いていました。

そして彼が住んでいた近所で、彼は時々BBCからのレポーターが彼女の仕事をしているのを見ました。

それが彼にインスピレーションを与えました。女性は自分が見ているものについて報告しました。

ニコラスもそのような仕事をやりたかった。

彼はたくさん(さまざまものを)見たからです。

たとえば、兵士が父親をスタジアムに何日も閉じ込めていた方法。彼らがそこで彼をどのように拷問し、屈辱を与えたか。

彼は夜の通勤者として、安全への彼の長い闇夜の旅でさらに多くのことを見ました。

幼い子供たちが安全を保つために何をするか、そして彼のように、夜何時間も歩きつづけました。

そして、どのようにいくつかがそれを成し遂げなかったか。

彼らがどのようにして反乱軍の手に渡ったのか。 

ニコラスは不正を見て、ノーと言いました。

それが彼がジャーナリストになりたかった理由です。 

そのことについて、彼は確信していました..

農村地域の人々が彼らの土地の権利を保護するのを助けるために法的援助サービスを提供することによって。しかし、政治家および野党指導者としても。 

ニコラスが別の呼びかけを発見したのはその時です。

そして弁護士になることを決心した。

法廷であなたはあなたがみてきた不正を変えることができるからです。

そしてその変化は、まさにニコラスが望んでいたことです。

ニコラスはかつて2人のレズビアンの女性が隣人に殴られているのを見ました。
彼はそれが公平ではないと考え、彼らを無料で代表(弁護?)することに決めました。

それは彼の最初のLGBTI事件であり、差別を生んだ多くの事件の1つにすぎません。 

彼はまた、同性愛の終身刑を規定する反同性愛法に反対するキャンペーンを行った...

ニコラスのおかげで、同性愛の終身刑の法律は制定されませんでした。 

そして、それが広範囲にわたる影響を及ぼしたと言っても過言ではありません...起こっていないことを測定するのは難しいですが。 

たとえば、刑務所にいないすべての人々のことを考えてみてください。

そして幸いにもそれ以上毒性が増していない反同性愛者の気候。

ニコラス自身が言ったように 「憎しみはその道で止められた」。 

彼の仕事は間違いを防ぐだけでなく、何か良いものを生み出しました。 

ウガンダのLGBTIの人々の間で自信が高まっています。人々はより強く感じています...彼らが彼らをサポートする同盟国を持っているという認識のもとで。

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結論
世界の人権状況を高いところから見ると、嵐が続いていることがわかります...そして長い間続いています。

特定の場所には不吉な暗い空があり、世界中には濃い灰色の雲があります。

LGBTIの人々の抑圧が高まっているヨーロッパでも。

そして、ジャーナリストが最近殺害されたオランダ上空。

そして、あなたがちょうど黒いスクリーンを見たこのスタジオの上。 

その灰色の雲量は、私たちが全体の話を見るのを難しくしています。

そのためには、ズームインして、マリ、ニコラス、ヌンカ・マスの人々が行っている重要な作業を確認する必要があります。

私たちが誰であるかを擁護するだけでなく、私たちを鼓舞し、そうです、私たちを変える人々。

ですから、高所から見ると、世界中で同じように見えるかもしれませんが、表面的には、それが絶えず変化していることがわかります。

私たちの心の中で。そして、私たちが誰であるか。

友達、今度は私が勝者を発表する時が来ました。

今年の人権チューリップは...に授与されます

ニコラス・オピヨ!

違いを生み出し、人々に自信を与えるために。

先ほど申し上げたように、LGBTIの人々だけではありません...

...だけでなく、ソーシャルメディアで活動している若いウガンダ人もいます。

彼らにとって、彼らの電話は世界の他の地域へのサイバーブリッジです...

...世界を発見し、世界がそれらを発見する方法。

それは彼らに声を与え、彼らが団結することを可能にするからです。

しかし、それを行うには、彼らは自信を必要とします。ニコラスが彼らに与えた自信。

ニコラスが刑務所にいたときでさえ彼の仕事はつづきました。(-証拠なしでマネーロンダリングの政府によって非難されたため)

彼は他の囚人を助け、彼らに法的助言を与えました。

彼はなんとか68人の解放を確保し、彼らをより強く、より積極的にしました。

言い換えれば、オピヨは彼らにも改善することを可能にしました。

ニコラス・オピヨ、心からおめでとうございます!


2022年9月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[1]ニコラスおめでとう

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[1]  ニコラスおめでとう

Primordial spirit
- African modern history / present history - Uganda[1] 

今月よりウガンダ時事ニュースをとして、歴史とは少し離れますがウガンダの人道的活躍と悪法の改正と和平に貢献した勇敢な弁護士を紹介します。

ニコラス・オピヨ弁護士(Nicholas Opiyo)はウガンダの人権派弁護士です。

「人権擁護家の仕事は、医師、看護師、農民、消防士の仕事と同じくらい重要です。
医者と消防士がいなければ、私たちは持っているものを失う可能性があります。
私たちの生活、私たちの家、そして人権擁護家がいなければ、私たちは自分たちが何であるかを失います。」(2021年12月6日彼のオランダのヒューマン・ライツ・チューリップ賞の受賞式での外務大臣によるスピーチ)

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ヒューマン・ライツ・チューリップ (Human Rights Tulip) は、世界中で人権を擁護し保護する活動を行う人権擁護者を支援するために、オランダ政府が毎年授与している賞です。
2021年はニコラス・オピヨ氏がヒューマン・ライツ・チューリップ受賞者に選ばれました。

ウガンダの公民権と政治的自由、特に選挙法、集会の自由の制限、言論の自由と報道の自由、市民権獲得のために戦い続けました。
そしてウガンダにおいて拷問を犯罪とみなす違法化、また反同性愛法への異議申し立てを成功させました。
弁護士という立場で暴力に晒されている犯罪者と同性愛者に法的に擁護したのです。

2017年にドイツアフリカ賞を受賞
2015年にヒューマンライツウォッチと欧州連合議会から 'Voices for Justice Award'を受賞
2016年のサハロフフェロー賞
2015年にアリソンデフォルジュ賞を受賞

彼はチューリップ賞含めて6つ受賞したことになります。
オピヨ氏は、憲法に関するハイレベルな申し立てをいくつか成功させているそうです。その1つが悪名高い2013年の反同性愛法で、同法は2014年8月に無効が宣言されました。
抑圧的な政権の支配下で、全ウガンダ国民の人権を擁護する活動にゆるぎない献身を続けるニコラス・オピヨ弁護士の実績は賞賛すべきものです。

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彼の国の背景について簡単に説明しますと、ヨウェリ・カグタ ムセベニ現ウガンダ大統領と、反政府勢力グループの1つである、軍閥ジョセフ・コニーが率いる「神の抵抗軍」との間で市民を巻き込む衝突があり、抑圧的な政治が続いています。

オピヨ氏の立場は中立でどちらが正しいという見解ではありません。軍閥ジョセフ・コニーが率いる「神の抵抗軍」 (LRA)は、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、少年兵を使ったゲリラ闘争で暴力性が強く、一方でムセベニ大統領側も権力志向で残忍だといわれています。

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【Wikipedia より】 
ヨウェリ・ムセベニ - Wikipedia (現ウガンダ大統領 Yoweri Kaguta Museveni)

「ムセベニの部下が最初に来たとき、彼らは非常によく行動しました。私たちは彼らを歓迎しました。しかし、その後、彼らは人々を逮捕し、殺し始めました」とある村人は言いました。」

1989年3月、アムネスティインターナショナルは、ウガンダに関する人権報告書「ウガンダ、人権記録1986-1989」を発表しました。それは、NRA軍によって犯された重大な人権侵害を文書化した。戦争の最も激しい段階の1つである、1988年10月から12月の間に、原子力規制委員会はグルという町とその周辺の自宅から約10万人を強制的に排除した。兵士たちは、人々を強制的に動かし、家や穀倉を焼き払ったため、何百もの超法規的に殺害したとされる。

一方で政治専門家はムセベニ氏を「アフリカのビスマルク」と呼んでおり、かつてはタンザニアで大学講師を務めるなどインテリであり、国家的な女性差別是正措置計画でも賞賛されている。彼は約10年間副大統領に女性のスペシオーザ・カジブウェを据えるなど、女性の大学進学に貢献したとされる。

【Wikipedia より】

ジョゼフ・コニー (Joseph Kony, 1962年 - ) はウガンダの反政府勢力神の抵抗軍 (LRA) の指導者。霊媒であると主張し、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、ウガンダ北部を中心として1987年以降残虐行為を伴い、また少年兵を使ってゲリラ闘争を続けている。





2022年8月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[6]モロッコの観光地

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原初の精神 モロッコ [6]
モロッコの観光都市

アラビアとヨーロッパの融合

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco[6] 

モロッコはアラビア世界とヨーロッパ世界が融合したエキゾチックな風景を楽しむことができます。国内には、旧市街地や古代遺跡など多くの世界遺産あり多くの観光客がおとづれます。またアフリカ最大級のショッピングモールやスークの買い物でアラビアの芸術やファッション、雑貨を楽しむことができます。

食文化や歴史や風土、イスラム建築、イスラム文化などなど、モロッコの国の魅力に取りつかれた方も多いのではないでしょうか。

アラビアやイスラム教は日本人には馴染みが薄いかもしれませんが、実際は芸術や歴史にはとても神秘的な美しさや奥ゆかしさがありますので、この機会にモロッコの国に親しんでいただければと思います。
今回の記事は随時加筆、更新させていただく予定です。

〇モロッコの観光都市〇
フェズ
メクネス
ムーレイイドリース
シャウエン
マラケシュ
カサブランカ
ワルザザード砂漠の街
ラバト


次回は「原初の精神 ウガンダ時事ニュース」をお送りします。

フェズ
フェズ・エル・バリ(通称フェズ)は「世界一の迷路の町」であり、世界中の人々を魅了し続けている街です。アフリカ大陸のモロッコ王国で、エキゾチックな街並みが広がるフェズは、観光で人気の都市。中でも、世界遺産に登録されている巨大な迷路のような旧市街が見どころです。現在では、敬虔やイスラム教徒が暮らす迷路のようなメディナ(旧市街)には、モロッコ特有のバザールが広がっており、伝統的なスパイスや、ムスリムの習慣に基づいて屠殺されたハラルの食材等が街中で売られ、イスラムの文化を存分に楽しむことができます。フェズには、古くから伝わる様々なモロッコ文化が今も息づいており、観光の見どころの一つとなっているのが、伝統工芸である皮なめしの加工場「タンネリ」で巨大な革の染色の工場の姿を見ることができるそうです。
なんといってもイスラム建築の素晴らしさを今に伝えるマドラサ(学校)、モスクや王宮等があり、豪華絢爛な建築物も見どころです。旧市街では、100以上の手工業が今も営まれており、職人たちが一つ一つ手作りした多種多様な工芸品がバザールで売られています。フェズ観光のおすすめスポットは「ブー・ジュルード門」(Bab Bou Jeloud)です。イスラム様式で建てられた壮麗な幾何学模様の門が勇名だそうです。
フェズ川沿いにはなめし皮職人街であるシュアラが広がり、シェッラティーン通りには民族衣装を扱う店が並んでいます。また有名なカラウィーン・モスクは、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっているモスクです。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが859年には宗教教育を始め、現存する世界最古の大学とも言われます。
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ムーレイ・イドリス 
メクネスから北へ22キロ、ザルフォーン山脈山沿いに白い家が立ち並ぶ。敬虔なイスラム教の聖者の街が、古都ムーレイイドリスです。モロッコ北部の町。8世紀末、アッバース朝に追われたムーレイ=イドリス1世が同国初のイスラム王朝であるイドリス朝を開いた地として知られます。丘の上のホルムとよばれるイスラム教徒の聖域には、ムーレイ=イドリス1世の霊廟がある。毎夏の聖者祭には多くの巡礼者が訪れます。
彼の霊廟には非イスラム教徒は入ることができず神秘的な雰囲気が漂います。
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シャウエン
シャフシャウエンまたはシャウエン ( アラビア語: 4A4'HF/'D4'HF 、スペイン語: Xauen、英語: Chefchaouen)はモロッコ北部の都市。青色の建物群で有名です。
シャウエンはタンジェや、スペインの飛地であるセウタに近く、スペインを中心とするヨーロッパからの観光客に人気がありあります。この都市の名前は、町から見える2つの山の頂きから来ており、それらはヤギの2つの角のように見えます。約200軒のホテルが、夏やクリスマスなどにヨーロッパから訪れる観光客を迎えます。シャウエンの一角には青く色付けられた家および建物があります。
シャウエンには、ウールの衣服、毛織物など、モロッコの他の場所で手に入れることのできない現地の手工芸品が数多く売られ、買い物先として人気です。当地原産のヤギのチーズも名物であります。
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カサブランカ
カサブランカは、大西洋に面したモロッコ最大の都市、モロッコの商業・金融の中心地です。
ダウンタウンにはムーア様式と欧州のアールデコ様式が混ざったモレスク建築があり、フランス領時代の名残があります。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの主演映画『カサブランカ』(1942年アメリカ)でも有名です。北部は大西洋に面した湾岸都市で、発展を続けています。高いビルが建ち並ぶ大都会でありながら、旧市街「メディナ」には昔ながらの暮らしが息づき、食料や金銀、香辛料などが並ぶマーケット「スーク」があって散策すると楽しいです。

一部が海に突き出た 1993 年完成の巨大なハッサン 2 世モスクには 210 m のミナレット(尖塔)があり、その頂上からはメッカの方向に向けてレーザー光線が発せられるようになっているそうです。

ムハンマド5世国際空港が郊外にあり、ロイヤル・エア・モロッコのハブ空港として機能している。カサブランカ中心部へは鉄道で結ばれている。日本との直行便はないので、ヨーロッパなどの空港で乗継が必要となります。
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ラバト
ラバトはアフリカにあるモロッコ王国の首都。市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)。ラバトとは「駐屯所」の意味です。人口ではモロッコ最大の商業都市カサブランカなどに次ぎ第3位の都市として、また首都としての機能のため、外国公館も存在し来訪者も多いです。
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マラケシュ 
モロッコ第三の都市マラケシュは、雑貨の聖地として有名な街で、王宮やバイーヤ宮殿、サード朝の大廟墓群など観光名所が目白押しです。中でもジャマエルフナ広場やスークは、屋台も出ている必見のスポットが沢山あります。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し「南の真珠」と呼ばれてきました。現在は経済の中心地として栄え、モスク、宮殿、庭園があります。人や建物が密集するメディナ地区は、ベルベル人の帝国時代に張り巡らされた城壁が残る中世都市です。迷路のように入り組んだ路地には活気あふれるスーク(市場)があり、伝統的な布地、陶器、宝飾品が売られています。
生活雑貨から織物やタジン鍋やバブーシュとお土産物も沢山あります。モロッコならではのミントティやクスクスなど独得の料理を味わって下さい。
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ジャマエルフナ広場
ジャマ・エル・フナ広場では、スパイスを求めて買い物に来る地元の人や、観光の合間に休憩する観光客で昼夜を問わずにぎわっています。観光客向けの個性的でかわらしいアラビアンライトや、アラブ風の模様が描かれた食器がたくさん陳列されています。

現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ毎日がお祭りのような楽しい雰囲気の広場です。 屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるそうです。
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メクネス
城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。北部には、聖地ムーレイ・イドリスや古代ローマ遺跡で世界遺産に登録されているヴォルビリスの古代遺跡があります。
なかでもイスマイル王はフランスのルイ14世に傾倒し、メクネスを「モロッコのヴェルサイユ」にすべく大改造を行います。古い建物を取り壊し、イスラム文化とヨーロッパ文化が融合した、イスパノ・モレスク様式と呼ばれる建築物を次々に建造しました。
城壁に囲まれた古都メクネスの入口にあるマンスール門は、精緻(せいち)なモザイクや彫刻が施され、北アフリカでも美しい門の一つとして知られ、王都のエリアへのメインゲートになっています。
馬蹄型のアーチは青と緑のモザイクで彩られ、壁の斜め格子の彫刻が美しい陰影をつくっています。

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ワルザザート
ワルザザートは標高1,160mにあるとても美しい都市です。カスバ街道上にあり、アトラススタジオはワルザザート西部にある世界最大規模の映画スタジオです。サハラ砂漠入り口の町で遠くにはオート・アトラスを望み、日干しレンガの村・ダデス川沿いのカスバ街道で知られています。
1983年に設立されて以来、ワルザザートの映画産業の中心となっています。不朽の名作「アラビアのロレンス」に始まり、人気大作「ハムナプトラ」や「スターウォーズ」など数々の名作が撮影されてきました。実際に映画で使用されたセットがたくさん公開されていています。
マラケシュからワルザザートへの道を地図上で辿ると、ちょうどその間にあるのが、世界遺産アイト・ベン・ハッドゥ。モロッコの隊商交易の中継地として栄え、要塞のように積み立てられた集落が点在しています。
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