2022年9月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[1]ニコラスおめでとう

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[1]  ニコラスおめでとう

Primordial spirit
- African modern history / present history - Uganda[1] 

今月よりウガンダ時事ニュースをとして、歴史とは少し離れますがウガンダの人道的活躍と悪法の改正と和平に貢献した勇敢な弁護士を紹介します。

ニコラス・オピヨ弁護士(Nicholas Opiyo)はウガンダの人権派弁護士です。

「人権擁護家の仕事は、医師、看護師、農民、消防士の仕事と同じくらい重要です。
医者と消防士がいなければ、私たちは持っているものを失う可能性があります。
私たちの生活、私たちの家、そして人権擁護家がいなければ、私たちは自分たちが何であるかを失います。」(2021年12月6日彼のオランダのヒューマン・ライツ・チューリップ賞の受賞式での外務大臣によるスピーチ)

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ヒューマン・ライツ・チューリップ (Human Rights Tulip) は、世界中で人権を擁護し保護する活動を行う人権擁護者を支援するために、オランダ政府が毎年授与している賞です。
2021年はニコラス・オピヨ氏がヒューマン・ライツ・チューリップ受賞者に選ばれました。

ウガンダの公民権と政治的自由、特に選挙法、集会の自由の制限、言論の自由と報道の自由、市民権獲得のために戦い続けました。
そしてウガンダにおいて拷問を犯罪とみなす違法化、また反同性愛法への異議申し立てを成功させました。
弁護士という立場で暴力に晒されている犯罪者と同性愛者に法的に擁護したのです。

2017年にドイツアフリカ賞を受賞
2015年にヒューマンライツウォッチと欧州連合議会から 'Voices for Justice Award'を受賞
2016年のサハロフフェロー賞
2015年にアリソンデフォルジュ賞を受賞

彼はチューリップ賞含めて6つ受賞したことになります。
オピヨ氏は、憲法に関するハイレベルな申し立てをいくつか成功させているそうです。その1つが悪名高い2013年の反同性愛法で、同法は2014年8月に無効が宣言されました。
抑圧的な政権の支配下で、全ウガンダ国民の人権を擁護する活動にゆるぎない献身を続けるニコラス・オピヨ弁護士の実績は賞賛すべきものです。

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彼の国の背景について簡単に説明しますと、ヨウェリ・カグタ ムセベニ現ウガンダ大統領と、反政府勢力グループの1つである、軍閥ジョセフ・コニーが率いる「神の抵抗軍」との間で市民を巻き込む衝突があり、抑圧的な政治が続いています。

オピヨ氏の立場は中立でどちらが正しいという見解ではありません。軍閥ジョセフ・コニーが率いる「神の抵抗軍」 (LRA)は、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、少年兵を使ったゲリラ闘争で暴力性が強く、一方でムセベニ大統領側も権力志向で残忍だといわれています。

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【Wikipedia より】 
ヨウェリ・ムセベニ - Wikipedia (現ウガンダ大統領 Yoweri Kaguta Museveni)

「ムセベニの部下が最初に来たとき、彼らは非常によく行動しました。私たちは彼らを歓迎しました。しかし、その後、彼らは人々を逮捕し、殺し始めました」とある村人は言いました。」

1989年3月、アムネスティインターナショナルは、ウガンダに関する人権報告書「ウガンダ、人権記録1986-1989」を発表しました。それは、NRA軍によって犯された重大な人権侵害を文書化した。戦争の最も激しい段階の1つである、1988年10月から12月の間に、原子力規制委員会はグルという町とその周辺の自宅から約10万人を強制的に排除した。兵士たちは、人々を強制的に動かし、家や穀倉を焼き払ったため、何百もの超法規的に殺害したとされる。

一方で政治専門家はムセベニ氏を「アフリカのビスマルク」と呼んでおり、かつてはタンザニアで大学講師を務めるなどインテリであり、国家的な女性差別是正措置計画でも賞賛されている。彼は約10年間副大統領に女性のスペシオーザ・カジブウェを据えるなど、女性の大学進学に貢献したとされる。

【Wikipedia より】

ジョゼフ・コニー (Joseph Kony, 1962年 - ) はウガンダの反政府勢力神の抵抗軍 (LRA) の指導者。霊媒であると主張し、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、ウガンダ北部を中心として1987年以降残虐行為を伴い、また少年兵を使ってゲリラ闘争を続けている。





2022年8月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[6]モロッコの観光地

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原初の精神 モロッコ [6]
モロッコの観光都市

アラビアとヨーロッパの融合

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco[6] 

モロッコはアラビア世界とヨーロッパ世界が融合したエキゾチックな風景を楽しむことができます。国内には、旧市街地や古代遺跡など多くの世界遺産あり多くの観光客がおとづれます。またアフリカ最大級のショッピングモールやスークの買い物でアラビアの芸術やファッション、雑貨を楽しむことができます。

食文化や歴史や風土、イスラム建築、イスラム文化などなど、モロッコの国の魅力に取りつかれた方も多いのではないでしょうか。

アラビアやイスラム教は日本人には馴染みが薄いかもしれませんが、実際は芸術や歴史にはとても神秘的な美しさや奥ゆかしさがありますので、この機会にモロッコの国に親しんでいただければと思います。
今回の記事は随時加筆、更新させていただく予定です。

〇モロッコの観光都市〇
フェズ
メクネス
ムーレイイドリース
シャウエン
マラケシュ
カサブランカ
ワルザザード砂漠の街
ラバト


次回は「原初の精神 ウガンダ時事ニュース」をお送りします。

フェズ
フェズ・エル・バリ(通称フェズ)は「世界一の迷路の町」であり、世界中の人々を魅了し続けている街です。アフリカ大陸のモロッコ王国で、エキゾチックな街並みが広がるフェズは、観光で人気の都市。中でも、世界遺産に登録されている巨大な迷路のような旧市街が見どころです。現在では、敬虔やイスラム教徒が暮らす迷路のようなメディナ(旧市街)には、モロッコ特有のバザールが広がっており、伝統的なスパイスや、ムスリムの習慣に基づいて屠殺されたハラルの食材等が街中で売られ、イスラムの文化を存分に楽しむことができます。フェズには、古くから伝わる様々なモロッコ文化が今も息づいており、観光の見どころの一つとなっているのが、伝統工芸である皮なめしの加工場「タンネリ」で巨大な革の染色の工場の姿を見ることができるそうです。
なんといってもイスラム建築の素晴らしさを今に伝えるマドラサ(学校)、モスクや王宮等があり、豪華絢爛な建築物も見どころです。旧市街では、100以上の手工業が今も営まれており、職人たちが一つ一つ手作りした多種多様な工芸品がバザールで売られています。フェズ観光のおすすめスポットは「ブー・ジュルード門」(Bab Bou Jeloud)です。イスラム様式で建てられた壮麗な幾何学模様の門が勇名だそうです。
フェズ川沿いにはなめし皮職人街であるシュアラが広がり、シェッラティーン通りには民族衣装を扱う店が並んでいます。また有名なカラウィーン・モスクは、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっているモスクです。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが859年には宗教教育を始め、現存する世界最古の大学とも言われます。
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ムーレイ・イドリス 
メクネスから北へ22キロ、ザルフォーン山脈山沿いに白い家が立ち並ぶ。敬虔なイスラム教の聖者の街が、古都ムーレイイドリスです。モロッコ北部の町。8世紀末、アッバース朝に追われたムーレイ=イドリス1世が同国初のイスラム王朝であるイドリス朝を開いた地として知られます。丘の上のホルムとよばれるイスラム教徒の聖域には、ムーレイ=イドリス1世の霊廟がある。毎夏の聖者祭には多くの巡礼者が訪れます。
彼の霊廟には非イスラム教徒は入ることができず神秘的な雰囲気が漂います。
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シャウエン
シャフシャウエンまたはシャウエン ( アラビア語: 4A4'HF/'D4'HF 、スペイン語: Xauen、英語: Chefchaouen)はモロッコ北部の都市。青色の建物群で有名です。
シャウエンはタンジェや、スペインの飛地であるセウタに近く、スペインを中心とするヨーロッパからの観光客に人気がありあります。この都市の名前は、町から見える2つの山の頂きから来ており、それらはヤギの2つの角のように見えます。約200軒のホテルが、夏やクリスマスなどにヨーロッパから訪れる観光客を迎えます。シャウエンの一角には青く色付けられた家および建物があります。
シャウエンには、ウールの衣服、毛織物など、モロッコの他の場所で手に入れることのできない現地の手工芸品が数多く売られ、買い物先として人気です。当地原産のヤギのチーズも名物であります。
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カサブランカ
カサブランカは、大西洋に面したモロッコ最大の都市、モロッコの商業・金融の中心地です。
ダウンタウンにはムーア様式と欧州のアールデコ様式が混ざったモレスク建築があり、フランス領時代の名残があります。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの主演映画『カサブランカ』(1942年アメリカ)でも有名です。北部は大西洋に面した湾岸都市で、発展を続けています。高いビルが建ち並ぶ大都会でありながら、旧市街「メディナ」には昔ながらの暮らしが息づき、食料や金銀、香辛料などが並ぶマーケット「スーク」があって散策すると楽しいです。

一部が海に突き出た 1993 年完成の巨大なハッサン 2 世モスクには 210 m のミナレット(尖塔)があり、その頂上からはメッカの方向に向けてレーザー光線が発せられるようになっているそうです。

ムハンマド5世国際空港が郊外にあり、ロイヤル・エア・モロッコのハブ空港として機能している。カサブランカ中心部へは鉄道で結ばれている。日本との直行便はないので、ヨーロッパなどの空港で乗継が必要となります。
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ラバト
ラバトはアフリカにあるモロッコ王国の首都。市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)。ラバトとは「駐屯所」の意味です。人口ではモロッコ最大の商業都市カサブランカなどに次ぎ第3位の都市として、また首都としての機能のため、外国公館も存在し来訪者も多いです。
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マラケシュ 
モロッコ第三の都市マラケシュは、雑貨の聖地として有名な街で、王宮やバイーヤ宮殿、サード朝の大廟墓群など観光名所が目白押しです。中でもジャマエルフナ広場やスークは、屋台も出ている必見のスポットが沢山あります。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し「南の真珠」と呼ばれてきました。現在は経済の中心地として栄え、モスク、宮殿、庭園があります。人や建物が密集するメディナ地区は、ベルベル人の帝国時代に張り巡らされた城壁が残る中世都市です。迷路のように入り組んだ路地には活気あふれるスーク(市場)があり、伝統的な布地、陶器、宝飾品が売られています。
生活雑貨から織物やタジン鍋やバブーシュとお土産物も沢山あります。モロッコならではのミントティやクスクスなど独得の料理を味わって下さい。
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ジャマエルフナ広場
ジャマ・エル・フナ広場では、スパイスを求めて買い物に来る地元の人や、観光の合間に休憩する観光客で昼夜を問わずにぎわっています。観光客向けの個性的でかわらしいアラビアンライトや、アラブ風の模様が描かれた食器がたくさん陳列されています。

現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ毎日がお祭りのような楽しい雰囲気の広場です。 屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるそうです。
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メクネス
城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。北部には、聖地ムーレイ・イドリスや古代ローマ遺跡で世界遺産に登録されているヴォルビリスの古代遺跡があります。
なかでもイスマイル王はフランスのルイ14世に傾倒し、メクネスを「モロッコのヴェルサイユ」にすべく大改造を行います。古い建物を取り壊し、イスラム文化とヨーロッパ文化が融合した、イスパノ・モレスク様式と呼ばれる建築物を次々に建造しました。
城壁に囲まれた古都メクネスの入口にあるマンスール門は、精緻(せいち)なモザイクや彫刻が施され、北アフリカでも美しい門の一つとして知られ、王都のエリアへのメインゲートになっています。
馬蹄型のアーチは青と緑のモザイクで彩られ、壁の斜め格子の彫刻が美しい陰影をつくっています。

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ワルザザート
ワルザザートは標高1,160mにあるとても美しい都市です。カスバ街道上にあり、アトラススタジオはワルザザート西部にある世界最大規模の映画スタジオです。サハラ砂漠入り口の町で遠くにはオート・アトラスを望み、日干しレンガの村・ダデス川沿いのカスバ街道で知られています。
1983年に設立されて以来、ワルザザートの映画産業の中心となっています。不朽の名作「アラビアのロレンス」に始まり、人気大作「ハムナプトラ」や「スターウォーズ」など数々の名作が撮影されてきました。実際に映画で使用されたセットがたくさん公開されていています。
マラケシュからワルザザートへの道を地図上で辿ると、ちょうどその間にあるのが、世界遺産アイト・ベン・ハッドゥ。モロッコの隊商交易の中継地として栄え、要塞のように積み立てられた集落が点在しています。
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2022年7月 3日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[5]まとめ

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原初の精神 モロッコ [5]まとめ

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ [5] 総論


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ムハンマド5世 (モロッコ王)
(アラウィー朝モロッコの第26代、28代スルターン、初代国王)がモロッコ で達成した偉業は目を見張るものがある。
兎に角モロッコ のあちこちに彼の名前が残されているからだ。

ムハンマド5世広場
ムハンマド5世霊廟
ムハンマド5世国際空港
ムハンマド5世大学

コイン、切手などに彼の顔が記されているのだから彼は英雄中の英雄なのです。
彼はイスラム教スンナ派でわずか51歳で亡くなり没後はラバトのムハンマド5世廟に眠っている。
この霊廟の荘厳な雰囲気は没後50年以上経ってもモロッコ独立の父であるムハンマド5世がいかに重要な存在であるかが伝わってくる。


1960年はアフリカの年26ヶ国が独立

ナショナリズムとアフリカ覚醒の年
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アフリカの年

アフリカの年(アフリカのとし、英: Year of Africa)は、西暦1960年の有名な呼び方である。シャルル・ド・ゴール大統領の措置によって13カ国の独立が認められたフランスを主に、アフリカ大陸で17カ国が植民地からの独立を達成し、脱植民地化が進んだ。
1960年のアフリカの急激な政治的変化は新たな時代の到来を予感させる年となった。

さらに、アフリカの年となった1960年にアフリカ大陸の独立国は9カ国(人口9500万人)から一気に26カ国(人口1億8000万人)にまで増加したという。
独立を達成した全ての国で汎アフリカ主義が強調されたのである。

しかしながら昨今、モロッコスペイン領スペイン領メリリャの移民大量死の事件がおき、 モロッコの人権団体が公平な調査求める事態になった。欧州への亡命を希望する人々は24日、モロッコ側からメリリャの国境フェンスに突撃し、国境警備隊と衝突。

この衝突で移民少なくとも23人が死亡、警備隊員を含む200人以上が負傷した。背後にはイスラム系テロ集団の影響もあるらしく、今や世界的に人気のある観光地となったモロッコに不穏な影も見られるのである

※次回はモロッコ最終回 モロッコの観光都市とその魅力をお届けします。
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アルガンオイルの実

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<追記>

ロシアウクライナ戦争に見る
マスコミ洗脳の欺瞞性

ウクライナとロシアの戦争にしても、ネオナチ化されたウクライナから人民を解放しているのは、他ならぬロシアのプーチン大統領である。
誤解に晒されながらナチズムの恐怖政治の洗脳から善人を守ったのが彼である。

ロシアのプーチン政権は「ネオナチの脅威」からの解放のためににウクライナに侵攻した。

↓ 動物愛好家のプーチン氏
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ロシアが推し進めた脱ネオナチのプロパガンダは、いずれ世界的に認められ、ウクライナ国民の自由を達成し、ニセ報道と闇の権力は容を消し、平等と公正の時代が訪れることだろう。

プーチンの目的は非ナチ化
ロシア悪玉のレッテルをはる報道は大嘘

ところでロシアの独立系世論調査機関「レバダセンター」が侵攻後の3月末にロシア全土53地域で行った対面調査でプーチン大統領の支持率は83%と言う驚異的な数字をあげているそうだ。

2020年や2021年には60%台の支持率でしたが、侵攻後にむしろ急上昇を記録している。

「ロシアは広大で極寒、不毛の大地である。ここで生き抜く為には集団を作って互いに守り合う必要がある。」 (ウラジミール・プーチン)

ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【上】 - 清義明|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

心理学者が危惧。「悪玉はプーチン」というレッテル貼りによる思考停止 

2022年6月 5日

【shop紹介】SAFARI AFRICAN RESTAURANT BAR in AKASAKA

(今月は「原初の精神」はお休みします)

エチオピア料理レストラン

-木で作った十字架-

「内戦は北部のみ。
エチオピア全土ではないよ。
マスコミはウソをついてる」(店長)

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昨晩は赤坂のSAFARI AFRICAN RESTAURANT BARに、
エチオピアレストランで、ドロワットカレーを食べに行きました。

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Safari店長は気さくで明るい方で、エチオピアの話しを沢山して下さいました。

エチオピアにはモーセのアーク(聖櫃)があり、世界中から取り合いになっているそうです。
誰もアークの場所は分からない。アークの場所は教会関係者の上が知ってるそうです。

◯エチオピア正教で最も重要なアイテム、モーセの十戒の石板が収められたアーク(聖櫃)が保管されている建物

エチオピアはすごい国だ!
あの国はモーゼのアークがある!
世界中がモーゼのアークを取り合いらしい!
しかしアークはどこにも無いらしい、、、

北部の内戦はそれが原因か?

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エチオピアやエジプトなど、アフリカのある国は国益の半分はイギリスにお金を払わないとならないらしいです。国の利益はごく僅かだそうです。

私はいつかアフリカ旅行をしてみたいので、店長にいろいろ質問をしてみました。

「どこの国も良い場所と危ない場所があるよ。観光のおすすめはタンザニア、ケニア
砂漠がなく緑が多いから」

「エジプト、泥棒いっぱいね(笑)」

「アフリカのイメージは、貧困や戦争が多いと、マスコミが悪くしているけれど、それはごく一部で起きていること」

「実際はアフリカは今は全然違いますよ。
アフリカに行って見れば分かる」

そうか!アフリカに行くのが楽しみだ。

ドロワットカレー🍛すごく美味しかった!
「食べるサウナ」と言う程辛くもなく、
日本人の口に良くあう。

水を使わず野菜と肉とスパイスだけなんですって!だから美味しいのですね。

店長が「エチオピア珈琲のハーブも食べれるから食べてごらん。」

うわー、この香り日本じゃない‼️

口いっぱいに広がるエチオピアの香りだ。

何より店内の飾り付けが面白い🤣
ジャマイカのレゲエのボブ・マーリー。
亡くなった「ハイレ・セラシエ1世」の写真が3枚も飾ってある。
店内のアフリカの音楽。
エチオピアの旗 等々

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↑  ジャマイカのボブ・マーリー

ハイレ・セラシエ1はカリスマ的にエチオピアのメシアになった方で、信者が70万人もいたらしい。でも彼は捕まって銃で打たれて亡くなったとのこと。

店の隅には木で作った粗末な十字架が飾ってありました。
下の写真みえますか?

この十字架はけして派手では無いけど、エチオピアの民たちが、自分達も西欧のように強くならんとして信じたのでしょうか。

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私はますますエチオピアの歴史やハイレ・セラシエ1世に興味が湧きました。

店長は、「アフリカの貧困や戦争のイメージは違います」って何度も仰ってました。

新しいアフリカをみるのが楽しみです。

沢山の情報ありがとうございました。
またお会いしましょう*\(^o^)/*

2022年5月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[4]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [4]

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- African modern history / present history - Morocco  

第4回  近現代  ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立まで

19世紀フランスのモロッコ進出

1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まるモロッコの主権も危機に脅かされ、ヨーロッパ列強の争いに巻き込まれていきます。

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1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、イスーリーの戦いで敗れるなど、ヨーロッパの圧力下、次第に戦争に破れるようになりました。

1912年モロッコは「フェズ条約」により、アラウィー朝はフランスの保護領になります。また鎖国政策の中で唯一外交を許されたタンジェは、23年間国際管理下になりました。フェズ条約により、モロッコの実権はフランスとスペインが握り、アラウィー朝は存在するものの、実態は植民地に他ならなかったのでした。

この時期フランス人L.リヨテが初代総督になります。フランスによるモロッコ統治を完成させた彼は首都をラバトに定めました。

モロッコの女性たち
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ベルベル勅令が発端となったナショナリズム

モロッコのナショナリズムが組織的な政治運動として現れるきっかけとなったのは、フランス保護領下で発せられたのが、悪名高き「ベルベル勅令」です。
これはアラブ人の多く住む都市部と山岳部のベルベル人居住地を区別するものでした。ラバト、カサブランカ、フェス、メクネスなどの重要都市と、ベルベルの山岳地帯を、これら都市部との接触をなるべく遠ざける方法です。

これはアラブ人をシャリーア、ベルベル人を慣習法で裁判を行う分割統治でした。
(いわゆるバラバラ勅令)

ベルベル慣習法は結局フランスの法制度に編入するものであるため、これによりアラブ、ベルベルの双方からなるアイデンティティは崩れることなり、国内から反発を呼ぶものになったのです。

マラケシュのスパイス
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この頃から、イスラム法学者、知識人、エリートの中から反仏運動が盛んになり始め、1933年にはアラール・ファーシー、ムハンマド・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えた。しかしながら彼らは活動中逮捕幽閉され、一時期モロッコの独立運動はリーダー不在の混迷した時期を迎えました。

第二次世界対戦中モロッコはナチスドイツに降伏し共和制が崩れた時期がありましたが、フランスはすぐ奪回します。
また。大戦中にはルーズヴェルトとスルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) が会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めました。

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スルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) とは

フランスから独立を勝ち取ったモロッコの国民的英雄である。アラウィー朝モロッコの第26代,28代スルターン、初代国王。
ラバトのムハンマド5世大学、カサブランカのムハンマド5世国際空港はムハンマド5世にちなんでそれぞれ命名された。一時はスルタンの座を追われ、マダカスカルに亡命しながらも国民の人望を集め、1956年見事にモロッコを独立に導いた建国の父でもある。

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モロッコ王 ムハンマド5世
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第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で独立運動が過熱するなか、第四共和制はナショナリズムを鎮圧することはできませんでした。植民地側は妥協案として、共同主権を提言しましたが、これはモロッコの完全独立を目指す側から拒絶され、ますます火に油を注ぐことになります。

モロッコの独立の達成

ナショナリズムの高揚の最中、フランスに敵視されたムハンマド・ベン・ユースフはマダガスカルに国外追放され傀儡政権となります。このことはモロッコ人の反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至りました。

ラバトにあるムハンマド5世廟
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しかしながら、フランスのインドシナ戦争の敗戦した事で、1955年に彼は復権し、翌年にモロッコ独立を達成しました。
またスペイン地区、タンジェ地区の主権も回復されました。
ムハンマド・ベン・ユースフはスルタンから王に改称、ムハンマド5世アラウィー朝13代として、モロッコの立憲君主制国家再建に取り組みます。





2022年4月 3日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[3]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [3]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

第3回  ワッタース、サアド、アラウィー朝まで

■弱体王朝ワッタース朝

マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立しました。
ワッタース朝は時期としては、大航海時代の初期にあたり、タンジェ、ララシュ、アザンムールと、ポルトガルに次々と都市を攻略された弱体な王朝でした。
ワッタース朝ではキリスト教勢力に対抗する措置として、シャリーフやスーフィ教団長の役目が重視されました。

マラケシュ 市場
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■サアド朝によるアガディール奪還

弱体化したワッタース朝に代わって盛り返したのが、スーフィー王朝のサアド朝です。
スーフィー教団で開祖のムハンマド・カーイムはポルトガルにジハードを宣言します。
彼の死後もサアド朝は攻略されたアガディールなどを奪還、ワッタース朝を滅ぼし、オスマントルコ帝国をしりぞけました。

モロッコのモスク
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■ポルトガル軍を破るサアド朝

サアド朝は、1578年に後継者問題に乗じてポルトガルの国王セバスティアン1世がモロッコに進軍したが、アルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、セバスティアン1世は戦死しました。


スパイシーなスープ
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モロッコ のサアドはスルタン マンスールの時期最盛期わ迎え、サハラ超えし、西アフリカの都市トゥンブクトゥ支配します。
サハラ遠征はモロッコとサハラ双方に様々な文化交流を引き起こし、サハラにはマグリブの学問文化が伝えられました。この時期、弱体化したモロッコが多いに勢いを盛り返した時期と言えます。
彼の死後サアド朝も後継者争いにより弱体化します。

珍しいメクネスの日時計
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■アラウィー朝  スルタン・イスマーイールによるメクネス建設

1660年にアラウィー朝が成立します。アラウィー朝もサアド朝と同じくスーフィー王朝で現在でも続いているモロッコの王朝です。

アラウィー朝の中でも権力を発揮したのが、スルタンイスマーイール(ムーレイ・イスマーイール・イヴン・シャリーフ)で、モロッコ最盛期を築き軍事的成功をおさめます。彼の黒人親衛隊(又はアビド・アル=ブハーリー)という黒人奴隷を頼りとした強力な軍隊の創設により、政権基盤の強化を行いました。

メクネスを作ったスルタン・イスマーイール
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彼はメクネスに遷都しモロッコ に平和をもたらしたとも言われますが、一方で彼の残酷さと厳格さから、ヨーロッパ諸国からは血まみれ王(bloody king)」、また母国では「戦士王(Warrior King)」と呼ばれていました。

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Wikipedia より
イスマーイールはサレとラバトに拠点とする海賊船の艦隊を支配し、彼らが地中海と黒海での襲撃を通じて彼にキリスト教徒奴隷や武器を供給していた。彼は特にフランス王国、グレートブリテン王国、スペインといった海外の強大国と重要な外交関係を樹立した。そのカリスマ性と権力の大きさから同時代のルイ14世と比較されることも多く、イスマーイールはその残酷さと即決裁判の厳格さから、ヨーロッパ諸国では「血まみれ王(bloody king)」との渾名がつけられた。また母国では「戦士王(Warrior King)」として知られている。
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モロッコ名産アルガンオイルの実
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彼はメクネスに遷都後、古い建物を片っ端から壊し、数多くの壮大な宮殿、庭園、記念碑的な門、モスクや40km超におよぶ壁などを含む、巨大な城塞と宮殿作りに取り組みます。

同じ時代にヨーロッパで太陽王として君臨したルイ14世のエリザベス宮殿に対抗したとも言われています。

1727年にイスマーイールは病死ししました。

2022年3月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[2]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [2]





Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  [2]
第2回  ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝

〇ムラービト朝 (1040年 - 1147年)
イブン・ヤースィーン建国
マラケシュの繁栄 

イドリース朝が王族争いで衰退すると、代わって南サハラからきたムラービト朝が栄え始めました。

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ムラービト朝は北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民が母体となり、モロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝です。

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マーリク派法学者であったイブン・ヤースィーンと彼の教説を支持するサンハージャ族一派は、現在のモーリタニアにあるセネガル川にある島に城塞(ラバート)を築いてそこに籠もり厳しい修道生活を始めました。修道生活に努める一方、彼は将来の教え勢拡大を考えて、身体を鍛え、剣術などの武術を磨いたそうです。

そのため、彼らは、「城塞(ラバート)に拠る人々」という意味の「ムラービトゥーン」と呼ばれます。 

彼の時代は、ラクダ遊牧民の宗教改革運動で、サハラ交易を通して運ばれた金により、新都マラケシュは繁栄しました。

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カリスマ的なイブン・ヤースィーンは、1058年に暗殺されてしまいます。

その後ムラービト朝はモロッコを制圧したのち、ユースフ・イブン・ターシュフィーン(位1061年~1107年)が現れます。有能な君主だった彼は、マラケシュの町を自らの手で立ち働いて整備し、モスク建設、灌漑路の開発を行い、「預言者ムハンマドと同様」という賛辞を浴びました。

ユースフは出兵、カスティーリャのアルフォンソ6世と会戦を行なっいましたが、ムラービト軍の太鼓の音と隊列に恐れをなしたカトリック連合軍は敗走したと言われています。

ユースフ死後、モロッコでは各地で反乱がおき、マラケシュはムワッヒド朝に攻め滅ぼされ陥落してしまいます。
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〇ムワッヒド朝  (1130年 - 1269年)

自ら救世主と称したイブン・トゥーマルト

ムラービト朝に続いてムワッヒド朝も宗教運動により生じました。始祖イブン・トゥーマルトは各地を遊学して独自の神学を打ち立て最終的には自ら救世主と称しました。

しかしがらマーリク法学派が完全に優勢であり、ムワッヒド朝もこの流れを抑えることはできませんでした。

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〇マリーン朝 (1196年 - 1465年)

その後12世紀末から15世紀末にかけて現れたのがマリーン朝というイスラーム国家です。

マリーン朝の国旗
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マリーン朝は、ザナータ系ベルベル人のマリーン族によって建国されました。フェズを首都とし、マグリブ西部を支配します。
宗教改革ではない勢力を母体とした彼らは、マドラサを建設しマーリク法学派を擁護て優遇措置を取りました。マリーン朝ではムワッヒド主義は継承されず、マーリク派が採用されました。
マーリク派は主に都市部で支持され、地方では聖者崇拝思想(マラブーティズム)の影響が強くなりました。

2022年2月 5日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[1]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [1]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco

モロッコは数多くの王朝が興亡したムスリムの国でアフリカ北西部に位置する立憲君主制の国家です。
西は大西洋、北は地中海、南東はサハラ砂漠、中央にはアトラス山脈がそびえています。

アトラス山脈はサハラ砂漠の熱風を遮るとともに、地中海の湿気で雨をもたらすことで、モロッコのあるマグレブ地域の住民に住みやすい環境を提供しています。

モロッコは1000年以上の歴史を持つフェズ、首都ラバト、マラケシュ、カサブランカ、シャウエン、メクネス、ムーレイイドリス、ワルザザード、エッサヴィラ、タンジェなど歴史のある都市が多数あります。

古都マラケシュ
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モロッコの歴史イスラム教成立の時期と同じですから、エジプトのように紀元前に遡る古さではありません。

今回よりモロッコの歴史と文化を5回に分けてお送りします。
第1回  イスラム教の到来、イドリス朝の成立
第2回  ムラービト、ムワッヒド、マリーン朝
第3回  ワッタース、サアド、アラウィー朝
第4回  近現代  ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立

最終回はモロッコの歴史的に有名な観光都市をいくつかご説明します。

イスラム教の栄華と発展を象徴するかのような、モロッコの歴史をご紹介出来ることを嬉しく思います!

モロッコ ワルザザート
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モロッコ マグレブ料理
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先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れました。モロッコの人口の多くはアラブ人とこのベルベル人が占めており、ベルベル人はモロッコの独立自治を守り、歴史の中で大きな役割を果たした民族です。

紀元前3世紀からベルベル系のマウレタニア王国が栄えました。このマウレタニア王国はローマの支配下で衰退します。
ローマ支配下のモロッコでは、タンジェ、リクソスなどローマ風都市が建設され内陸部で栽培された小麦、オリーブがイベリア半島に輸出されました。しかしながらアトラス山脈以南やサハラ砂漠以南ではローマの影響はほとんど受けませんでした。

マラケシュの市場
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モロッコにイスラームの到来

最初にイスラーム都市が北アフリカに現れたのは、今のチュニジアにあたる地域に建設されたカイラワーン(ケルアン)です。チュニジア中部の内陸部にある古都であり、670年,ウマイヤ朝が派遣した北アフリカ総督ウクバ・ブン・ナーフィーが建設した軍営都市で、マグレブ地方最古のイスラム都市です。

8世紀初頭にはイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まります。
788年にアッバース朝に対し反乱を起こし、その勢力争いに敗れたアラブ人 ムーレイ・イドリース1世はモロッコの母方の地域に亡命しました。

ムーレイとはイスラム教で「聖者」の意味です。
(イスラム聖者の話はまた別途説明の機会を設けようと思います。)

イドリス朝の建国と伝説

たぐいまれな才能に恵まれ勇敢なイドリス1世紀は、原住民ベルベル人の支持を受け、フェズ  にイスラム王朝を築きました。彼は渾身の力でベルベル人、アラブ人をイスラム教に改宗させます。

イドリース1世はシャリーフという預言者ムハンマドの末裔の家系でした。

フェズは1000年以上続く世界最大の迷宮都市であり、一説によれば神のお告げで生まれた都市と言われています。イドリス1世がフェズを建国した時にこのような伝説があったと言われています。


有名なフェズの染色作業

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イドリス1世がフェズ川周辺に都市の建設の構想を練っていたとき、老人が現れて「この地にはかつてフェズという都があったが、滅んでしまった。やがてイドリスを名乗る男がやってきて町を再建するでしょう。」と告げたことで、彼は「この町の再建が神から与えられた私の使命であり、アッラーの名のもとにこの町をフェズと名付けよう。」と、決意したといわれています。


イドリス1世が亡くなったあと、彼は自分の作ったイスラム教の聖者の街「ムーレイイドリス」の霊廟に埋葬されました。今でもこのイスラム教の聖地は緑の街と言われて、山奥で神秘的な雰囲気をたたえているそうです。

フェズの大発展

その息子ムーレイ・イドリース2世の時代にフェズは正式に首都となります。チュニジアやスペインから新しい移住者を受け入れました。
街の中心にはフェズの建設者イドリース2世の霊廟(「サヴィア・ムーレイ・イドリス廟」)があり、国中から巡礼者があとをたちません。巡礼者はバラカ(神の祝福)を得ようとして、墓に近づいて祈願し、子育てや結婚祈願をするのでした。

イドリース2世のもと、フェズはイスラム諸学の知識人が集まるモロッコの芸術・文化・学問の中心地として繁栄し、マドラサという学校も作られました。
フェズは驚異的な発展を遂げ、857年から859年にかけてカラウィンモスクが設立されました。
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2021年12月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- セネガル

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Primordial spirit 
- African modern history / present history - "Senegal"

原初の精神 「セネガル」 

イスラム教ムリッド教団と超能力者アーマド・バンバ


アフリカ大陸の最西端に位置し、サヘル地域に属するイスラム国家です。(サヘル地域とは、サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域です)

セネガルは国民の95%がムスリムのイスラム教徒です。国名の由来は東と北の国境となるセネガル川にありその名前はウォロフ語で「我々の船」を意味するそうです。

セネガルと言えば、パリ・ダカールラリーのゴールで有名ですが、本当はこの国はかつてフランスの植民地でアフリカ最大の奴隷貿易がさかんな国でした。
この史上最悪、吐き気をもよおす奴隷貿易というものはどのように生まれ、消えていったのでしょうか。

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首都ダカールのモスク

初めて現在のセネガルに訪れたヨーロッパ人はポルトガル王国の人間で、彼らはセネガルの若者4人を通訳として拉致しました。その後ポルトガルに続いて、オランダ、イギリスが到着。金、象牙や奴隷の交易を目的に海岸地帯の主要都市の奪い合いが始まりました。

1659年にフランス王国がセネガル川の中州にサン・ルイ商館を建設。後述するゴレ島もサン・ルイ、ガンビア川と共にセネガルの悪名高き奴隷貿易の中心になっていきます。


ゴレ島  史上最悪の世界遺産

この島は1848年に奴隷貿易が禁止されるまで、300年以上の間、大西洋奴隷貿易の出発地となっていました。フランスの港湾都市ナントでは1763年から775年の10年余りで、10万人以上の奴隷が売買されたとの記述も見つかっています。ここで親子が離れ離れになり、ヨーロッパやアフリカ周辺の島々に送られたのでした。ゴレ島の館の廊下に並ばされた時、故郷アフリカ、そして家族との永久の別れを意味していたそうです。

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暗黒の組織  カトリック教会

黒人奴隷たちに対しては、ルイ14世の治世に奴隷に対して悪名高い「黒人法」が適用されました。この法律は黒人奴隷に対する奴隷主の責務をとり決め、奴隷のカトリック改宗の必要性や奴隷主もカトリックであることを規定したほか、残虐な制裁も正当化するもので多くの奴隷が命をおとしたと言われています。

またこの頃から、イスラム教の聖人達がヨーロッパ人に協力する在地の諸王国の奴隷狩りに対して反乱を起こしたが武力鎮圧されました。

セネガルには大きく4つのイスラム神秘主義の、スーフィー教団があります。即ちティッジャーニ―教団、ムリッド教団、カーディリー教団、ライエン教団です。
セネガルの独立の歴史のなかで大きな役割を果たすのが、イスラム神秘主義のムリッド教団です。

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ダカールの街

イスラム教神秘主義  ムリッド教団

ムリッド派は19世紀末にアーマド・バンバによって作られました。バンバの元にはかつての王の奴隷、貧民農耕民、為政者が集まり、現代では信徒400万人を超えると言われています。
バンバはイスラムの宗教教義の研究に専念する人でしたが、敬虔な信徒で、神の恩寵を受け奇跡を起こす人であったと言われています。

彼は植民地時代にフランス政府に弾圧され、1895年に ガボンに追放されますが、1902年セネガルに戻り布教活動を再開しました。バンバが流刑地から奇跡的に帰国したことが語られるようになったことで、ますます信仰が高まりました。

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セネガルの公園

超能力者?アーマド・バンバの教え

重要なのはバンバがガボンから戻った時期から、ムリッド教団はフランスと協調路線に切り替えだしたということです。戦って権力に逆らっても決して良い結果をまねかないことを彼は知っていました。

フランスはイスラームのムリッド教団を通じて農民に商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立し、土地の所有権を与えたと言われています。

アーマド・バンバの教えは、平和主義、勤勉、そしてマナーの美徳、そして「労働は神への道」ということを強調したと言われ、ピーナッツ畑を熱心に耕し勤勉であったそうです。
今でも彼の肖像画はダカールの街のあちこちに置かれ、セネガルの人々の心の拠り所になっています。

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アーマド・バンバ

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セネガルのムリッド教団の特色については改めて記事を設けます

1960年の独立後、ムリッド教団は独自の農場を基盤に拡大を続け、都市部にさらには海外へとそのネットワークは広がっていきました。
ムリッドは、国境を越えて独自のネットワークを構築し、セネガル国内はもとより、移動先各地にダイラ (Dahira=各地域、職場等て゛結成された信徒組織)を結成し、聖地トゥーバを中心とする宗教ネットワークを構築しています。
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1854年、軍人ルイ・フェルデルブが商館長である「総督」に就任します。セネガルは奴隷制がストップするかわりにフランス植民地になり、その頃からフェルデルブ総督のイジメが始ります。

彼は36歳の若さで総督になってから民衆蜂起があれば、その村を焼き討ちにしてしまい、反抗する村人を平定してしまいました。そして現地の諸王国を征服し、セネガル川流域をフランスの支配下に置き、商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立します。

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さらにフェルデルブはセネガル人を「セネガル歩兵」としてフランスの戦争に動員したり、下級官吏養成学校政策を推し進めてサンルイの発展に貢献しました。

現地黒人が初めて国会議員に選出

1914年には現地黒人が初めて国会議員に選出されました。
1945 年10月に実施された新憲法制定のための国民議会選挙において、フランス市民権を持たないアフリカ人が立候補し投票することができる選挙 区が各植民地に設けられました。

これにより植民地のアフリカ人がフランス本国の国民議会に代表を送ることができたのです。
これはセネガルが自由への道を歩む大きな布石であり、こうして宗主国フランスと少しずつ同じ権利を手にするようになりました。

その後セネガルは300年に渡るフランス植民地を経て、キリスト教大統領サンゴールが選出されるなど、近代化の道を歩みます。

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セネガルの歴史を見ますと、ムリッド教団が宗主国フランスと協調路線に転じた頃から、彼らは徐々に自由への権利を獲得したことが分かります。

「この暗黒の時代にもし自分が生きていたら、果たしてどう生きただろうか」と自問しますといろいろな答えが返って来ます。
例えば究極の強者の人であって「簡単ですよ、価値観を合わせるのです」といって結論から考えるような方もいます。
然しながら、その時代の価値観に合わせ近代化の道を歩む、という結論に至るまで数多の血と涙があったのです。

親子離散し奴隷になった現実を目の前に、近代化を受け入れるなんて到底難しい。。。

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余談ですが、今年私が富士山に登る途中、いろんな砂利道や岩場がありましたが、比較的光輝いた明るい岩場を選べば、躓くことなく登れたりしたのを思い出します。
暗黒の時代に、内側に心の支えになったのが、イスラム教神秘主義のムリッド教団の教えであったのです。

(ご感想やご意見があればお気軽にお寄せください)

2021年11月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- アンゴラ


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Primordial spirit 
- African modern history / present history - "Angola"

原初の精神 「アンゴラ」 

長年の独立戦争で疲弊した国

アンゴラ共和国(ポルトガル語: Republica de Angola)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制の国家です。

アンゴラは長年ポルトガル植民地でした。1961年から10年以争は、ポルトガルとアンゴラ双方を大きく疲弊させました。

内戦終結後は原油やダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に経済発展が見られ、首都ルアンダは大都市化しました。

しかし、20年間以上続いた内戦のために1000万個を超える地雷が未だに埋まっているそうです。
さらに、首都のルアンダでは2009年時点で世界一物価が高いことや、原油価格が下落し、数多くの貧民とスラムを抱えたなど数多くの問題を抱えています。

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Photo by Andreas from Pexels


(以下Wikipedia より) ------

かつてはコンゴに代わって奴隷の供給源になった歴史も

1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代に、コンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと改名した。その後、ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていた銀の供給源と見なし、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスがポルトガル領アンゴラを、翌1576年にルアンダを建設し、ポルトガルはルアンダを拠点にさらなる奴隷の供給を求めて、さらにアンゴラ内陸部への侵略を行った。

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1961年アンゴラ解放人民運動(MPLA)が、政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃しアンゴラ独立戦争(ポルトガルの植民地戦争)が始まりました。紆余曲折のすえMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言しました。

しかし独立を果たした後も内戦が続き、以下の3勢力により支配地域が分かれます。

- ソビエト連邦が支援するアンゴラ解放人民運動MPLA
- アメリカ合衆国が支援するUNITA
- 中華人民共和国とフランスが支援するFNLA連合

アンゴラは第2代大統領にMPLAジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任し、社会主義陣営との結び付きを強めMPLAによる一党制を敷きました。

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中国とアンゴラの関係

冷戦終結後、中国はインフラ整備を行い、アンゴラに対し2007年までに1兆5000億円の資金援助をしました。また、アンゴラは原油の4分の1を中国に輸出しており、最大の輸出先になりました。

また外国企業の進出も盛んであり2004年に中国の政府系金融機関中国輸出入銀行(中国进出口银行)は20億ドルの現金をアンゴラに貸し出しローンはアンゴラのインフラの再建に使われました。

現在では中国はアフリカ諸国に対する債務超過をかかえ、アフリカとの蜜月は終わったという説もあります。

石油産業の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、ソナンゴル(Sonangol Group)によって強化されました。

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経済成長を遂げた首都ルアンダ

アンゴラは、ナイジェリアに継ぐ産油国で、世界の石油の50分の1をアンゴラが産油するようになった時期もありました。石油の売上がGDPの3分の1、また輸出額がアンゴラ全体の90%を占めていたそうです。
その石油事業の実権を握ったのが国営の石油会社ソナンゴル(Sonangol Group)でありコングロマリット(同族企業)です。
ソナンゴルはドス・サントス氏の家族と彼の政党の権力者層によって直接的に管理されていました。
ソナンゴルの石油事業がアンゴラの経済成長を大きく支えたことは間違いありません。

アンゴラは「ダイヤモンドの原石のような国」と言われているそうです。ダイヤモンド以外に金、銅、ボーキサイト、鉄鉱石、ウラン等様々な資源が眠っています。

経済成長を遂げた首都ルアンダの海岸線には先進的な都市が広がっています。

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■「資源の呪い」とは

ダイヤモンドが取れるのに貧しいのはなぜか?

ここで、少し資源の呪いについて説明します。
「資源の呪い」とは資源の不足が成長を停滞させているのではな く、豊かな資源を抱え込んでしまったことが呪いと なって災いする問題で、1990 年代半ば頃から「資源の呪い(resource curse)」 と呼ばれ、アフリカの抱える問題の一つとなりました。
資源の輸出 比が高い開発途上国で、輸出品への依存度が高いほど1人当たり成長率が低くなるのです。

重要な問題は経済面において石油や鉱物といった特定資源にいつまでも依存することは、国の成長の鈍化と貧困拡大の傾向 を強めるということです。一次産品に頼ることで知的水準も技術力も向上しないのです。このような国家を「レンティア 国家」(もっぱら天然資源等によるレント収入で賄われている国家)といいます。

実際には欧米や中国の資本で鉱産資源の採掘がおこなれ、海外の企業が利益を横取りしています。

そのためにも欧米や中国の企業にいつまでも依存するのではなく、アフリカ独自の企業が中心となっていくことも大切でしょう。

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■女性初めてのアフリカ発億万長者も

1979年9月アンゴラ解放人民運動MPLAの代表  ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス(ポルトガル語: Jose Eduardo dos Santos)が就任して以来高級官僚、軍司令官、政治経済のトップに様々な利益提供がなされるようになりました。以後、2017年にドス・サントス氏が約40年勤めた大統領を退任するまで彼の長期政権は続きます。

またその間娘イザベラ・ドス・サントス氏はここ数年、40ヵ国以上の国々に異なるセクターで数多くの企業を築き上げつつ、ポルトガルの銀行やケーブルテレビ局の株を積極的に購入し巨額の富を得てアフリカで女性として初めて億万長者にランキングしました。

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(しかし租税を回避したり不正蓄財の疑惑で、大統領を引退した父ドスサントス氏の後継者がイザベル氏を解任しました)

アンゴラの物価は以上に高く、海岸沿いのレストランが1人1万円、ホテルが400ドルもしたそうです。
また消費財、生産財すべてが国際価格を上回る値段で取引されて利益も僅かだったそうです。
政府側と反政府側で続いた内戦でインフラである道路、鉄道、工場は破壊され、自分の農地を放棄せざるを得なくなり大量の難民化が起こった為でした。