2025年1月 3日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[3]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[3]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [3] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
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クワメはアメリカのリンカーン大学に入学。
ニューヨークでは苦学の日々。それでも彼は学業優秀で主席で大学を卒業します。

◆アメリカ留学の夢にむけて

クワメはアメリカ留学を実現するために貯めたお金をすべて貯金していたそうです。

アメリカ行きの計画を母親に話すと、母親は「神様と先祖様がお前を守ってくださいますように」と言いました。息子がアフリカを離れて、アメリカにいくことを悲痛な思いで受け止めたことでしょう。息子の決心は揺るぎないものであることは知っていました。
12年の長い間親子は離れ離れとなりました。

クワメはまずアキシムからラゴスへ密航しました。
そのあと彼を乗せた船は、まずイギリスのロンドンに着きました。
ここでアメリカ行きのビザ(旅行証)を貰い、それからニューヨーク行きの船がでるリバプールヘ向かいました。
一九三五年十月、クワメはようやくニューヨークへ到着することが出来ました。
アメリカでクワメは、フィラデルフィアの西にあるリンカーン大学へ入ることになりました。

船員に交じって中にはいり、連中の食事を食べ、ボイラー室の窮屈さと暑さに辛抱しながら航海に耐える日々でした。彼は、船酔いに耐え、服はボロボロ、ひげはぼうぼうでした。

ラゴスでは着替えて、ズボンとシャツを買います。
リンカーン大学への入学申し込みは数か月前に出してありました。

アクラのエンクルマ記念公園
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◆イギリスのリバプールで旅券を買う

まずイギリスに渡り、アメリカの旅券を手に入れないといけない。
クワメは、親族のお陰で100ポンド持っていたのと、親族のエンサコムの族長が50ポンド与えたので、それでリバプールまでの旅券を買いました。

リバプールについて一週間滞在したのち、クワメはアメリカの旅券をもらいにロンドンへ行きました。
先の見通しは立たず、自分の力に及ばないことをしているように覚え、故郷に帰ろうかと考えもしました。右も左も分からない異国の地で、彼も途方に暮れる気持ちになったことでしょう。

丁度その時、新聞売りの少年が新聞の束をトラックから降ろしていました。みると、
「ムッソリーニ、エチオピア侵攻」という張り紙を見つけました。
その一瞬、ロンドンの全部が自分に宣戦布告をしているように感じられたのでした。

クワメは植民地主義を倒すために働く日がくることを祈りました。
その目的を達成するためなら、私は地獄へでも行こう、と決心をしたそうです。

ニューヨークについたのは初秋の10月の終わりごろで、故郷の平和と静けさから抜け出した私は
巨大な建物と、尽きることのない群衆に押し流されていました。
一種のおののきと、幸せで明朗な雰囲気がありました。


1954年に生まれたリンカーン大学は、合衆国内の黒人に高等教育を与えて、黒人社会に有用な指導者を育てることを目的とした最初の教育機関です。
この大学を計画し、創設したのは、長老派の宣教師でした。

アフリカからの旅がとても長かったので、リンカーン大学についたときは、クワメが用意してきたわずかな金は、殆ど無くなっていました。
それでも学校だけは卒業しようと決心していたので、アルバイトで働きながら学校へ通いました。
夏休みには船員になり船でも働きました。船の仕事が一番、お金が取れるからでした。
しばらくすると毎日曜、ある黒人教会で説教師の仕事をすることもできました。

カラフルなカカオの実
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◆12年の苦しい留学生活、その後フリーメーソンの会員になる

リンカーン大学へ着いたときには私の所持金は40ドル、中学校の免状、リンカーン大学への紹介状
次の試験でよければ、リンカーン大学で第一学年の編入を認めました。

試験を受けて入学資格を獲得します。
私はいつも主席と自席の学生でしたので、リンカーン大学ではずっと奨学金をもらっていました。

奨学生の為に学内では2つのアルバイトがあり、一つは図書館の助手、一つは食堂の給仕でした。
私はそれ以外のアルバイトを見つけて、学生のレポートを一回一ドルで引き受けたりしました。

弁論大会で、私は2位になり、金のメダルをもらうことができた。

また、クワメはアメリカにいる間にフリーメーソンの会員にもなったそうです。
彼は、世界を政治的、経済的に支配する秘密結社の存在にも気づき、そうした組織の力も知るようになったのでした。

1942年、リンカーン大学を主席で卒業し、神学士の号を得ました。
慣例に従い、その年の卒業の演説もさせられました。

クワメはよく本に親しみ、主に政治や哲学書、主にドイツの哲学者へーゲルや、同じくドイツの政治家マッチュイ、ロシアのレーニンの本を好んで読んでいたようです。
だが一番強い影響をうけたのは、マーカス・ガーヴェイの『哲学と評論』でした。ガーヴェイは、アフリカ人の自由を叫んで戦った先駆者の一人でした。

◆自由の国アメリカに存在する差別

学校を出ていたにもかかわらず、クワメの生活は貧乏生活であり、常に働くことを考えなければなりませんでした。下宿代を節約するために、NYのハーレムからブルックリンまで、一晩中運転する地下鉄に乗って過ごすこともあったそうです。
クワメは友達とフィラディルフィアの駅の待合室で、夜を過ごすこともありましたが、警官は二人を公園に寝るように追い出したそうです。

自由の国アメリカでも、黒人はまだまだ人種差別の壁は厚く、生活に困窮することがよくありました。
レストランで水を下さい、とお願いすると「出ていけ。黒人のお前は、そとのたん壺でたくさんだ!」
と怒鳴って追いやられました。


◆生きていくためにNYで様々な仕事をする

エンクルマは在学中に研究費を稼ぐために、造船所で働き、深夜の12時から翌朝8時まで働きました。過酷な労働と寒さの中で肺炎になり、ガタガタ震えて救急車に運ばれて、酸素室に入れられたこともありました。
このころのエンクルマは仕事と研究で24時間ぶっとおし頑張り続けたため、体を壊しかかったのでした。彼は差別と貧困のなかで何ども故郷ガーナに帰ることを考えたのでした。

リンカーン大学で夏休みを迎えたときに、学業終了後は学生の大学構内にとどまることが禁止されていたので、かれは途方にくれました。
NYに行き、ハーレムに住んでいたアフリカ人の所で寝泊まりをしました。彼も自分に劣らず貧乏人で、仕事の探す相談をしたのでした。

二人が見つけた仕事は魚の市場で卸値で買った魚を街角で売る仕事でした。エンクルマは魚アレルギーがあり、全身にかゆい吹き出物がでました。
然しながらこの仕事も続かず、とうとう寝る場所も失う羽目になりました。

これからどおしたものかと考えてぶらぶらしていると、リンカーン大学時代の友人が部屋を貸してくれて、仕事が見つかるまで置いておいてくれたりしました。

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石鹸工場にしごとを見つけたのもこのころでした。

バラの花の香りを毎日身に着けて仕事場から帰れると想像していたが、外れていました。

この工場での仕事は、、これまでにないほど不潔で、不快なものでした。
動物の腐った内臓や脂肪のかたまりを、トラックから庭へ放り出される。
この悪臭をはなつ、不潔極まりない塊を、熊手で押し車にのせ、処理工場へ次から次へ運ぶ仕事は不快を極めたのでした。

日がたつにつれこの仕事になれるばかりか、吐き気を抑えるのに苦労したのでした。

1939年第二次世界大戦がはじまるまで、私は船乗りの仕事を続けました。
初めてこの仕事に就いたとき、船会社の職員がぶっきらぼうに「ウェイトと給仕の両方の仕事ができますか?」
私は不採用がこわくて、「出来ます」と答えて採用してもらい、船に乗り込むことになりました。

食堂の給仕らしいスマートな服をきせられ、料理を運ぶ仕事をしました。

次の更改のときには、食堂の規則も、料理の名前も覚えたので、船員食堂の給仕に出世しました。
この仕事はチップもよく、一日三食の食事がもらえ、しかもスマートな制服も帽子ももらえて気に入っていたのでした。

戦争が勃発して、船乗り生活が終わってしまい、クワメは心から残念だと思いました。

港町の街路をあるきながら、誰も自分のことを知らず、いつ殺されても心配されることもない身でした。アメリカの空の下で野宿するよりは、故郷のアフリカの星の下で、寝る方が、蚊の銃撃を受けるにしてもはるかに幸福であることを思いつつ。

エンクルマは、黒人のいろいろな宗教の集まりや信仰復活運動の集会を次々に尋ねまわったそうです。その中で特別に興味をひかれたのは、精霊神父の会のひきいる運動でした。この会にはいると素晴らしい特典があり、おいしいチキン料理を半ドルで食べることができたり、一ドルの散髪を数セントにしてもらったりと、貧乏学生には魅力的な会でした。

フィラディルフィアにいるときに、黒人を宗教的、社会的に経済的見地から調べる機会を与えられました。フィラディルフィアに住む600の黒人家族の調査を通してアメリカ合衆国、特に何部の激しい人種差別の実態を知り、黒人差別問題に目をむけるきっかけとなりました。

彼自身も黒人差別のひどさは身にしみて分かっており、カラカラにのどが渇いても一杯たりとも水を与えず、「たんつぼでも飲め!」といわれて追いやられたこともありました。




2024年10月 4日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[2]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[2]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [2] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
 
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◆アフリカの明星が生まれる

エンクルマは1909年9月21日、イギリス領の植民地黄金海岸(ゴールド・コースト)の西部海岸にあるンクロフルにて、アカン人鍛冶屋の家に生まれました。
ガーナ南部のアカン人のあいだでは生まれた曜日と性別によって自動的に名前が決まるため、土曜日に生まれた男児である彼には「クワメ」の名がつけられました。

◆赤ん坊に命を吹き込む

エンクロフルの村では、誕生、結婚よりも死者の葬式の方が大切に扱われ、あの世で死者が楽に暮らせるようにと、金や着物を一緒に埋めて葬儀は数週間にも及びました。

たまたま彼の誕生の日は、彼の祖母がなくなったので村で大きな葬儀の日とかさなったそうです。そのため、エンクルマの生まれたことに村人は注意を払わなかったそうです。ところが、しかし私の生まれた場所では、私が長い時間、生きている兆候を全然しめさなかったため、皆が心配しはじめました。

母は赤ん坊(エンクルマ)が死んだと思い込んで、すべてをあきらめてしまいました。これは無慈悲に聞えるが、そうではありません。
アカン族のあいだでは、母親が子供の死を悲しむと不妊になると信じられており、不妊はアフリカの女性にとっては最悪のことだったのでした。

しかし葬式からもどってきた親類の女たちは、簡単にはあきらめませんでした。
赤ん坊に生命を吹きこもうとして、シンバルやその他の楽器でできるだけやかましい音をたてる一方、私をふったり、赤ん坊(エンクルマ)の口にバナナをつっこんで咳をさせて、息をひきだそうとさえしました。

ついに女たちは、赤ん坊(エンクルマ)の生命をひきだすことに成功しました。
女たちは努力をやめて、泣いて足をけあげている土曜日の赤ん坊を、心配している母の手に渡しました。

首都アクラ
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◆クワメの優しい両親

クワメの父は強い性格の持ち主でしたが、子供には非常にやさしく、自分の子どもを心からほこりにしていました。父が私に向かって手を上げた記憶はありません。

母は、私が思い通りにならないときに一度家族が食べるシチューに鍋つばをはいたときに、おそろしくきつく打ったことがあったそうです。

クワメが三つになったとき、母はクワメをつれて、ハーフ・アシニイ町の父のところへ行きました。
父はここで、金細工の職人をしていました。

ハーフ・アシニイ町はエンクロフル村からは八〇キロもなれていて、フランス領アイボリイ・コースト(象牙海岸)との国境にある港町でした。
もちろん乗り物などは何ひとつない。この長い道のりを、三つになったばかりのクワメは歩いて行きました。
 
クワメの家はあまり裕福ではなかったが、けれどもそのかわり、自由に遊べる入江や海や、川、茂みや森がありました。

クワメは一人で遊ぶのが好きでしたので、自然の中を散歩したり、鳥やけものをさがしたりして、時を過ごしていた。小鳥やリスをペットとして大切に持ち帰ったりもしました。

また、精霊に取りつかれたかのように時々気性が激しくなり怒りを表す子供でした。
ある日、異腹の姉の結婚相手となった男性が家に来た時、エンクルマは魔物に取りつかれたように金切声をあげ、その結婚相手の男を蹴ったそうです。
その男は仕方なく家から逃げて帰りました。

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カカオの実

◆神学校教師になるまで

エンクルマは学校では非常に熱心に勉強しました。

父親が毎月3ペンスの授業料を払うことができなくなりそうで、エンクルマは鶏を飼い始め、毎月鶏を売って6ペンスを得ました。これで学費の一部を補い、本を買う余裕もできたそうです。

当時のガーナの初等学校の教師は暴力的で生徒を棒でたたき、生徒たちは彼らの暴力を恐れていた。
ひそかに「教師がいなければどれだけ自由に学びができ、学校は楽園いなるのだろうか」と、エンクルマは思っていたようです。
このころ彼はローマカトリック教会の洗礼を受けたそうです。

◆17歳で教師となる。教え方が上手く評判を得た

1927年に首都アクラのアチモタ・スクールに入学し、1930年に卒業後、エルミナのローマ・カトリックの小神学校の教師となり、1年後にはアクシムのカトリックの学校で教鞭をとり、さらに2年後には近郊のアミサノで神学校教師となりました。

アチモタ大学はその頃できたばかりの大学で、アクラの近くにありました。
このアチモタ大学でクワメはアグレイ先生を知ることができました。
アグレイ先生はその頃の西アフリカでは、もっともすぐれた黒人の教育者でした。

◆民族主義への目覚め

アグレイ先生の生涯の最大の目的は『人種の調和』ということでした。
植民地主義のはびこる時代にアグレイ先生のメッセージは重要な意味を持っていたのでした。

「君たちはピアノの白いキイを使って、一つの調子を出すことができました。

また黒いキイを使っても、調子を出すことができました。

だが全体のハーモニーは、黒と白、両方のキイを使わなければ、つくることができない。」

アグレイ先生はクワメが大学に入ってまもなくのころ、アメリカで亡くなったそうです。
彼の影響でクワメの魂のなかに、アフリカ独立への情熱が赤々と燃え始めました。



2024年9月 6日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[1]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[1]  エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [1] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著

今月より、本編を含む数回に分けてガーナ初代大統領の自伝をご紹介させて頂きます。

エンクルマは、独立運動を指導したエンクルマは非暴力不服従を掲げて、イギリスと粘り強く交渉し、57年に独立を勝ちとりました。彼は「ガーナ独立運動の父」と呼ばれています。

彼の生涯をみて多分多くの人が「天才的な戦略家」であるという印象をもつのではないでしょうか。

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この本を読み終わり、思わず

「この自伝は絶対、映画化してほしい!」

彼の情熱と勇気と英知に満ちていて感動の連続でした。

まさしく黄金海岸(ゴールドコースト)に解放の光をもたらす使命を持って、生まれてきた方だったのでしょう。

アメリカのリンカーン大学留学時代にエンクルマは独立の新星として同級生にも、政治的に大変期待され、詩を贈られていたそうです。寸暇を惜しんでよくアルバイトに励み、大変働き者でした。

そんな彼が数十年後に達成したガーナ独立。その後アフリカの年には、17か国が続いて独立を果たしたといわれています。

3月5日ガーナ独立の日、数多(あまた)の群衆が首都アクラの広場に集まったそうです。

歓声とどよめきの中、夜中の0時にイギリスの国旗が降ろされ、ガーナの三色旗に入れ替わりました。

どんな気持ちでガーナの人々はこの日を待ち望んでいたことでしょう。

多くの偉業を果たしたエンクルマの政治経済はアフリカの模範となり、世界中が注目するようになりました。


黄金海岸とアシャンティ王国

ちなみに「黄金海岸(ゴールドコースト)」という言葉を聞いて、どんな所か想像できますでしょうか。

ここは現在のガーナのあるアフリカ西岸のギニア地方にあり、かつては「アシャンティ王国」という黒人国家が栄えていましたが15世紀からポルトガルのアフリカ植民地支配がはじまり、盛んに黒人奴隷が行われていたのです。

アシャンティ王国は、初代のオセイ・トゥトゥが小王国を組織・統一したのち首都を現在のクマシに創設しました。
アシャンティ王朝の権力のシンボルとして、天から授かった黄金のスツールに座る者が最高権力を得たという伝説があります。
欧州でのパワーがオランダからイギリスに移ったように、ガーナにおいてもイギリスの支配下へ移ります。
19世紀にはガーナはイギリス植民地となります。そののちイギリスとの戦争に敗れた最後の若き王プレンペーはセーシェルに流されたといわれています。

ポルトガルによるアフリカ黒人奴隷貿易の記憶を忘れないための世界遺産「エルミナ要塞」は現在のガーナにあります。こんなひどいことをした、かつてのキリスト教徒たち唾棄すべき人間たちではないでしょうか!

ガーナのストリート
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「わが祖国への自伝」(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著

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この本の著書の前書き抜粋ですが、とても良い内容なのでぜひご一読ください。⇒※A
前書きを読んだだけで当時の彼の独立に対する情熱や戦略が伝わってきてとても感動致します。

エチオピアのアディスアベバに中国の支援で建設された現在のアフリカ連合本部前には金色のエンクルマの像が配置されているみたいです。
いつか私も西アフリカのガーナを訪ずれてみたいです。

こちらはガーナ首都アクラにある、エンクルマ記念公園です。

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◆前書き抜粋 ※A
「インドのガンジーの非暴力の影響を受ける」

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アメリカでの勉学の終りのころに、リンカーン大学をふくむいくつかの黒人大学から講師になるようす
すめられた。それは生活のためのたたかいの一つの終点を、ひそかに私が望んでいた環境での苦労のない快適な生活を、約束してはいた。しかし、すでに十年以上もまえから燃えあがり、はげしく燃えつづけている民族主義の炎を、そのために心から消すことはできなかった。

黄金海岸の独立こそは私の目標だったのである。黄金海岸は植民地であり、植民地主義とは、外国が経済上の利益を追求することを最高の目的として他の領土を政治的にしばりつける政策である、と私はいつもみなしていた。植民地制度が多くの領土で騒擾や政治危機をまねくのは当然である。 植民地支配から、できることなら脱したいと願わない民衆はいないからである。

当時、私は革命家と彼らのやり方を熱心に研究した。とくに私の興味をひいたのは、ハンニバル、ク
ロムウェル、ナポレオン、レーニン、マッツィーニ、ガンジー、ムッソリーニ、ヒットラーである。私
は、摂取する価値のある多くのこと、のちに帝国主義に対する闘争で役立った多くの思想を、発見した。

(ガーナ料理)
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ガンジーの非暴力の哲学が役に立つとは、最初私にはとうてい思えなかった。それはまことにひ弱く
て、成功の見こみはないと思われた。植民地問題の解決は武装反乱によってのみ可能だ、と当時の私は考えていたのだ。武器も弾薬もなしに革命に成功することがどうしてできよう、と私は自問した。
しかしガンジーの政策を長いあいだしらべ、それが強い政治組織に支持された場合にもつ効果を目撃して、この非暴力哲学が、いかに植民地問題の解決に役立つかを思い知った。ジャワハーラル・ネルーの政権獲得を見るにつけ、そこに社会主義を目ざし、ガンジーの哲学を現実の事態に適用した生きた成果を、私はみとめたのである。

植民地主義に対する黄金海岸のたたかいは、いまはじまったことではない。一八六八年に組織された連合〔ファンテ連合] は、 一部の族長が、近縁部族であるアシャンティ人に対してだけではなく、海外からの政治的な侵略に対して自分らをまもるために団結してつくったものである。黄金海岸へのイギリスの支配は、イギリスが交易権をえた一八四四年の条約以後、しだいに強化されていたのだ。





2024年4月 4日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[4]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

Primordial Spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [4] Gaddafi, proud of being a nomad

カッザーフィーが政権を取ってからのリビアの社会福祉政策は驚くべきものがあります。
国民のすべての不幸が解消されているかのような、大変ありがたい政治であります。



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<社会福祉政策> 

1.電気代全国民無料 
2.融資には金利がなく、リビアの銀行は国営で、全国民に対して与えられる融資は、法律で金利ゼロ・パーセント。 
3.リビアでは住宅を所有することが人権と見なされている。 
4.リビアでは全ての新婚夫婦が、新家族の門出を支援するため、最初のアパート購入用に、政府から60,000ディナール(50,000ドル)を受け取る。
  →結婚した夫婦には約500万円を支給
5.リビアでは教育と医療は無償。カダフィ以前、識字率はわずか25パーセントだった。現在、識字率は83パーセント。 
6.リビア人が農業の仕事につきたい場合には、農園を始めるための、農地、家、器具、種、家畜が、全て無料で与えられる。 
7.リビア人が必要な教育あるいは医療施設を見いだせない場合、政府が外国に行くための資金を支払い、さらには実費のみならず、住宅費と自動車の経費として2,300ドル/月、支払われる。 
8.リビア人が自動車を購入すると政府が価格の50パーセントの補助金を出す。 
9.リビアの石油価格は、リッターあたり、0.14ドル。 
10.リビアに対外債務は無く、資産は1500億ドルにのぼるが、現在世界的に凍結されている。 
11.リビア人が、卒業後就職できない場合は、本人が雇用されているかのごとく、特定職業の平均給与を、職が見つかるまで国が支払う。 
12.リビア石油のあらゆる売上の一部がリビア全国民の銀行口座に直接振り込まれていた。 
13.子供を生んだ母親は、5,000ドル支払われる。 
   →子供を産むと母親に約50万円支給。
14.リビアでは、パン40斤が0.15ドル。 (10円程度)
15.リビア人の25パーセントが大学の学位を持っている。 
16.カダフィは、この砂漠国家のどこででも自由に水が得られるようにするため、大人工河川計画として知られる世界最大の灌漑プロジェクトを遂行した。
17.ガソリン代は1リットル約10円
18.医療費無料
19.男女平等差別禁止
20.リビアでは「家を持つことが人権」とさている。


まさしく天国リビアです。この政策のどこが暴君なのでしょうか?

このような政策ができる理由は、石油の売り上げの一部を国民に還元しているからです。リビアは石油の埋蔵量はアフリカ最大であり、
それでいて人口が少ないので、一人当たりのGDPはアフリカの上位クラスだったそうです。
「資源の呪い」と言われて外国に資源を吸い取られるだけで国民に何も還元しない他のアフリカ諸国とは大違いです。
しかもこうしたリビアの大改革をIMFや世銀などの国際的サラ金機関からは金を一切借りず経済成長を成し遂げているのです。


■「石油は産油会社のものでなく、産油国のものである」

・騙されていたリビア

王政時代から、リビアの原油は「ワックス(蝋分)が含まれているから」として、1バーレルあたり5セントの値引きをしたり、リビアのコフラ地区灌漑事業を進める条件に、5%を税金で払うというリビア国王に押し付けていました。そうした不当な方法でリビアを騙していたのが、「メジャー」と呼ばれる欧米の大手石油会社(モービル、エッソ、テキサソ、オキシデンタル石油など)である。
リビア原油は、硫黄分の少ない世界有数の良質油とされているが、メジャーはこの点については一切無視していたようです。

リビア革命後に、カッザーフィーの革命政権は「ワックス分の値引き解除」「低硫黄分の加算」など5項目を要求し、リビア原油価格の値上げを要求します。
世にいう「石油戦争」の始まりです。

石油戦争カダフィのいう「新しい論理」、つまり「石油は産油会社のものでなく、産油国のものである」という論理は、国連第二十五回総会で「天然資源に対する主権は国家の領土主権の一部である」という決議を導きだしました。そして4月2日、メジャーはリビア政府の要求を飲んで、石油値上げに同意したのでした。

リビア革命政権が世界史のうえでも注目される理由は、実にこの点にある。リビアの革命的論理"に基づく石油値上げ交渉の勝利は、世界の石油の流れを、メジャー主導型から産油国主導型に変えたのである。

石油戦争の結果、リビアの原油価格は2倍になりました。このリビアの勝利が産油国を勇気づけ、脱メジャー支配の先駆けとなったのでした。
「12.リビア石油のあらゆる売上の一部がリビア全国民の銀行口座に直接振り込まれていた。」
先のカッザーフィーの政策の一つである12番は、こうした石油戦争によりもたらされたといえます。

ダイヤモンドが大量に採れても、アフリカの人は貧困のどん底から解放されない搾取の仕組みは、ダイヤモンドの利益が国民に還元されず外国資本企業の懐に入るからです。カッザーフィーは他のアラブ石油産出国や中国共産党と異なり、石油で得た利益を国民に分配していたのでした。


■独裁者ではなく、民主主義者

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それに独裁といってもその国家運営は次のように、国民が直接参画できる民主的ものだったのです。

欧米マスコミが"カダフィの軍事独裁制"と表現するリビアは、実際は世界で最も民主的な国家でした。
カダフィの独特な直接民主主義の下で、伝統的な政府機構は解散され、廃絶され、権力は様々な委員会や議会を通して、直接国民のものだった。
リビアは非常に分権的であり"ミニ自治州"が存在し、各自の地域支配し、石油収入や予算資金をいかに配分するかを含め、様々な決定をすることができたそうです。
(リビア民主主義の三つの主要な組織は、基礎人民会議と、県地区人民会議と、全国人民会議である)


■「ジャマーヒーリーヤ」について

引用<アフリカ日本協議会 -Africa Japan Forum->(http://www.arsvi.com/i/2lby201106.htm)HPより

「やがてカッザーフィーは極めて特異な政治思想を掲げるようになる。
彼は著書『緑の書』の中で、代議制民主主義、政党政治、階級独裁のすべてを特定の「代表」や集団による独裁であるとして否定、多数決原理すらも「少数者に対する独裁の強要」としてしりぞけた。そして最底辺の基礎人民会議から全国人民会議に至る人民会議を組織し、全人民が基礎人民会議に参加して合議・合意により政治的意思決定を行う「人民直接民主制」によってのみ、真の民主主義が実現されると主張したのである

人民会議の設立は1977年の「人民権力確立宣言」以降本格化され、国名も「社会主義人民リビア・アラブ・ジャマーヒーリーヤ」に改称された。「ジャマーヒーリーヤ」とは「大衆の共同体」を意味するカッザーフィーの造語である。1979年にはカッザーフィーがすべての公職を辞任、リビアは彼の観念によれば、「国家元首も首相、政府も存在しない」世界でただ一つ真の民主主義が実現された理想社会となったのである。」

http://www.arsvi.com/i/2lby201106.htm


■カッザーフィーが亡くなる(2011年リビア内戦)

隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生する。
国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と反カッザーフィー派の蜂起を招き2011年8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退する。反政府勢力により首都全土が制圧され政権は事実上崩壊します。

10月20日午前8時国民評議会がカダフィ勢力最後の拠点となったスルトに攻撃を開始。戦闘は約1時間半で終了し制圧される。その際2か月間スルトに潜伏していたカダフィ大佐は南アフリカ人などで構成された護衛が乗った数十台の車列を組み逃亡を試みますが、フランス空軍とアメリカ空軍の空爆を受けます。車列を離れたが反カダフィ勢力により身柄を拘束。その後暴行された怪我が元で亡くなったそうです。

2024年3月12日

原初の精神 予告編

原初の精神 予告編
Primordial Spirit - Modern and contemporary African history - Advance Notice

今月は東北の仙台に滞在中のため「原初の精神」を更新できず、予告編とさせていただきます。
(申し訳ございません。。)

原初の精神は、リビアのカダフィ大佐はあと2回、その後も帝国主義を打倒しアフリカ諸国の独立に貢献した、活動家や政治家の生涯を特集します。

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【今後の予定】

カダフィ大佐  (リビア) ※あと2回
トーマス・サンカラ (ブルキナファソ)
エンクルマ (ガーナ)
ハイレ・セラシエ皇帝  (エチオピア)
ネルソン・マンデラ (南アフリカ)
マーチン・ルーサーキング牧師 (アメリカ) 
イスラム神秘主義、スーフィズムについて
名著に学ぶ (スワミ・リヴェーカナンダ師など)
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Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar
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Francis Kwame Nkrumah
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Thomas Isidore Noël Sankara
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Haile Selassie
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Nelson Rolihlahla Mandela
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Martin Luther King Jr.
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時折、ヨーガの名著に学ぶを復活させつつ
このようなテーマで流れていく予定です。

アフリカの独立に貢献された偉人の方々は心より敬意を感じる方ばかりです。
エンクルマ大統領なんて、頭がよくて超エリート。
ハイレ・セラシエ皇帝なんて写真を見ただけでお優しそうな方で世界中にファンがいるのではないでしょうか。エチオピア帝国がすさまじく強かったのは彼の力です。

様々な国と民族、文化、宗教が混在し、魅力溢れるアフリカに、皆さまがご関心を持つきっかけになれれば幸いです。

2024年2月 1日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[3]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

Primordial Spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [3] Gaddafi, proud of being a nomad

■大佐のリラクゼーション中に空爆が

リビア爆撃(リビアばくげき)は、1986年4月15日にアメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーの暗殺を目的とした攻撃であった。
作戦自体は成功したものの、カッザーフィーの暗殺に失敗した上、アメリカは国際的非難を浴びることとなった。また、リビア政府はこの報復として1988年12月にパンアメリカン航空103便爆破事件を起こしている。
民間人15名とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女ハナが死亡したとリビアは発表し大規模な追悼が行われた。

カッザーフィーは幸い休止に一生を得たが、実はこの時偶然にも地下壕で腰痛治療のために横になり、リラクゼーション中だったそうだ。これは明らかにカッザーフィーの暗殺を目論んだ攻撃であったが、彼の居所と考えられる地下壕にも、ベドウィンテントには、かすりもしなかったのである。
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先のリビア爆撃で生後一五ヶ月になる養女を亡くしたカッザーフィーの報復か?88年の米パンナム機爆破事件が発生。
リビア政府の関与の下で実行されたテロ事件として国際問題となり、被害を受けたパンアメリカン航空(パンナム)がその後に経営破綻する遠因にもなった。

1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否したため、米政府は79~06年、リビアをテロ支援国に指定。国連安保理は制裁を科していた(1969年09月27日)

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遺跡 レプティスマグナ

■カッザーフィーのアラブ風の素敵な邸宅

カッザーフィーの邸宅は外部のものものしい警護状態とは打って変わって、内部には二面のテニスコート、サッカー場、庭園に芝生も整備されていて、快適な居住空間になっていた。 サフィーヤ夫人を始めカッザーフィーの家族は、高級な家具が備わった二階建ての大きな邸宅に住んでいた。この邸宅の近くにカッザーフィーは大テントを張って遊牧民の伝統的な暮らしを再現させ、公賓の接遇の際に使っていた。 

テントの外側は当時のリビアを象徴する緑一色に塗られていたが、内側はアラブ式に色とりどりのキルトで飾られていた。そこにはカッザーフィーの著書『緑の書』から抜粋された言葉が刺繍されていたといわれる。

国民を幸せにした為政者だからこそ、彼の住まいがいかにアラブ風の豪華な家だからといって、誰も嫉妬しないでしょう。カダフィファンの私としては、ぜひ当時の彼の生活を再現し、拝見してみたい気持ちとなりますが。。。


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■大量核兵器撤廃宣言

国連制裁解除とリビアの対外イメージを上げるために、カッザーフィーは2003年末には「大量核兵器撤廃」を宣言し査察団の受け入れを行った。
おそらくイラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れていたとも言われる

アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。
そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。
「大量核兵器撤廃」を宣言により、一石三鳥ともいえる大きな外交的成限が二〇数年ぶりに解除果をあげることになった。
二〇〇四年二月にはアメリカ市民のリビア渡航制限され、ついで四月にはイラン・リビア制裁法が解除される(イランだけは制裁が残り、イラン制裁法となった)など、各種の制裁が一気に解除緩和に向かったのである。


2023年12月 2日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[2]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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原初の精神  -アフリカ史- リビア[2]
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

primordial spirit
- Modern and contemporary African history - Libya [2] Gaddafi, proud of being a nomad

前回はリビアという国がオスマン帝国と、イタリア(ナチスドイツ)に蹂躙されてきた戦火の絶えない国でした。そうした戦乱の歴史を背景として、カダフィことカッザーフィーは大きな改革者として生まれました。
この緑の無地の旗は、彼の作った大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国 の国旗です。


リビアの改革を成功させた英雄であるにも関わらず、地位や名誉にもこだわらず自らを生涯「大佐」と名乗り、民族衣装をまとい、また遊牧民の生活にこだわり、訪問先の外国でもテントを張って野営していたそうです。そうしたユニークな庶民性や人間味が多分にある人でした。

テント生活が好きなんてよほどアラブ民族を誇りとして、伝統を大切にしていた方だったのでしょう。

この記事を書くに当たりまして参考とした良書がこちらです。文章も綺麗で読みやすいです。
クーデター時の状況も克明に描かれているよう思います。随分熱血漢な顔をされていますね。

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中を開くと直筆のサインが!!
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■概要: カッザーフィーはどんな人だったのか

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ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي‎, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日 - 2011年10月20日)は、リビアの軍人・革命家・政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)の元首。

中部リビアの砂漠の遊牧民ベドウィンの子として生まれ、士官学校に入学、ナセルのエジプト革命の影響を受け、自由将校団を結成して革命運動を指導する。
1969年9月、リビア革命と言われる「無血」クーデターによって王制を倒して27歳で権力を掌握し軍事政権をつくった。

政権を獲得後、2011年に至るまで42年にわたり長期独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された。

その豊かな石油収入を背景とした強硬な外交政策と、舌鋒鋭く欧米や国連を批判する姿から、危険な独裁者と見なされ「中東の狂犬」とよばれ警戒されていた。

民族衣装をまとい、遊牧民テントを好み、外遊時は遊牧民テントを持参して野営するなど、ユニークな存在として広く知られた。

その著書『緑の書』3巻(1976~79)では、資本主義でも社会主義でもないという意味での第三の普遍理論を目ざしています。

日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。1993年から2009年まで1リビア・ディナール紙幣や50ディナール紙幣に肖像が使用されていた。

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◆称号:大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者及び革命指導者
الشقيق القائد ومرشد الثورة

リビアのモスク

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■カッザーフィーの生い立ち

カッザーフィーは1,942年春にスルトの南方40キロメートルの砂漠の中に遊牧民のテントで生まれました。彼はアラブ化したベルベル人の貧しい遊牧民のカダファ族に生まれたと言われています。
カッザーフィーの父はラクダやヤギ、ヒツジを放牧し、時折それを地中海沿岸の町やフェッザーン地方の内陸都市の市場に売ることで、生計を立てていたそうです。

遊牧民の子供は差別されることも多かったようですが、カッザーフィーは勉学に優秀で尊敬されていました。

両親は遊牧民の大半がそうであるように、読み書きができなかったのですが、子供たちに伝統的な昔話や英雄物語を話して聞かせることも多かったそうです。

リビアの近代史は、オスマントルコ帝国やイタリアによって蹂躙されてきた歴史でした。

そのためこのような部族の歴史を受け継いだカッザーフィーは、早くから政治活動に目覚めていたのでした。
彼は週に一回巡回してコーランを教える教師から、イスラムの教えを学んでおり、彼らからリビアの英雄について学んでいたのでしょう。

カッザーフィーは若いころか政治に興味を示すとともに、士官学校に入学するとらエジプトのナセルに倣って、地下組織、自由将校団を結成し、停滞したサヌーシー朝王家打倒を計画します。
その頃から自分の右腕になるような人物を慎重に選んでいたのでした。

■無血クーデターのリビア革命

士官学校では4か月のイギリス留学があり、陸軍隊長になる訓練が施されました。この時期、イギリスでは中東やアフリカ労働者がごみ収集や道路の清掃など、卑しい職業をさせられていることに、大きな影響を受けました。
彼は執拗な人種差別をうけ、それがのちに、リビア革命を引き起こす引き金になったといえるようです。

この時期リビアはサヌーシー王朝のイドリース国王の元でひどく疲弊していました。

1969年にムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)が、イドリース1世 (リビア王)を無血クーデターで廃位し、実権を握った「リビア革命」が起きます。

1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は、廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」とした。

同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会、(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた) が共和国の最高政治機関となることが宣言されました。

1976年には毛沢東語録に倣い、自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。(毛沢東の統治を倣っていたとは少し残念ですが)


<コーランに依拠した『緑の書』>

第三国際理論(Third International Theory)もしくは 第三普遍理論(Third Universal Theory)とは、リビアで実施される政体についての理論で、カッザーフィーが1970年代初頭に提唱したものである。部分的にイスラム社会主義とアラブ民族主義に影響されたこの理論は、資本主義をもはや誤りであることが証明されたイデオロギーであると述べ、第三世界諸国のために、資本主義および共産主義の代替となる新たな普遍的体制を提案している。また第三国際理論の哲学的基礎の多くはコーランに依拠している。

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<大リビア設立>

そして1977年、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。



2023年10月 8日

原初の精神 -アフリカ史- リビア[1]カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして


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← 当時のリビアの国旗

原初の精神  -アフリカ史- リビア[1] 
カダフィ大佐 遊牧民を誇りとして

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- Modern and contemporary African history - Libya [1] Gaddafi, proud of being a nomad

今回より何回かに分けて北アフリカのリビアをご紹介します。
最初イスラム教の殺伐とした歴史にあまり興味は抱きませんでしたが革命家のカダフィ大佐(カッザーフィー)の生涯だけはご紹介できればと思い、特集を組ませていただきました。

西側諸国はカッザーフィー(カダフィ大佐)を「中東の狂犬」と呼んで独裁者呼ばわりして恐れていますが、実は彼は手厚い社会福祉政策で、天国リビアを作った人です。
リビアの国民の全てを愛し、リビアの国民の幸せのために尽くした業績は素晴らしいものがあります。

ロシアのプーチン大統領も同じですが、西側メディアの作ったカッザーフィー(カダフィ大佐)のイメージというのはまったくの嘘で、本当の姿を報道していません。

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1967年に カッザーフィーは、革命によりアフリカで最も貧しい国の一つであるリビアを受け継ぎました。
そして彼が暗殺される前にはこの国をアフリカで最も豊かな国へと変えていたのでした。
しかも当時のリビアは、最も低い幼児死亡率、全アフリカで最も長い平均余命を誇っていたと言われています。

第一回目は古代リビアを取り上げ、カダフィが活躍する背景の時代を説明します。前置きが長くなりますが、彼が生まれた時代背景を知ることはカッザーフィーを知ることでもあります。

◎リビア国(アラビア語: دولة ليبيا‎, Dawlat Lībyā、英語: State of Libya)、通称リビア(リービヤー、ليبيا, Lībiyā、Libya)は、北アフリカに位置する共和制国家。
東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリ。

トリポリ城:世界遺産レプティスマグナの遺物など貴重な資料が保管されています。


<古代リビア>

     「リビアにはすべてのものがある」 歴史家 ヘロドトス

古代リビアは、内陸の歴史や住民については不明なことが多いらしく、数多くの壁画や岩盤彫刻が残っており、それらが世界遺産になっているそうです。

紀元前2000年ごろ、フェニキア人を皮切りにローマ帝国、バンダル人、アラブ、トルコなどの外国人勢力が海岸線沿いに侵入しましたが、内陸の砂漠では遊牧民や原住民が、自由に移動して暮らしていたようです。

一言でいえば、古代リビアは、地中海沿岸からわたってきたフェニキア人が植民都市を築いた頃からの、長い歴史を持つ国といえます。

7世紀にイスラームが台頭し、アラビア半島からアラブ軍が侵攻して以降、内陸部にもイスラムが浸透していきました。

16世紀からオスマン帝国の支配が続き、20世紀初頭に地中海を隔てて対岸に位置するイタリアが侵攻し、植民地としました。第二次世界大戦中に、イギリスとフランスの共同統治を受けましたが、1951年に連邦制の王国として独立しました。

この1951年トリポリタニア、キレナイカ、フェッザーン連合王国ができるまでは、リビアは統一政権を持ったことがありませんでした。

リビアの海岸地域にフェニキア人が入り込んだ紀元前2000年ごろは、古来より交易にたけていたフェニキア人はベルベル人よりアフリカの金、銀、象牙などを安く仲介して仕入れていました。


<トリポリタニア (今の首都トリポリ)>

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紀元前7世紀ごろ、トリポリ、レプティス・マグナ、サブラタの3都市がフェニキア人によって建設され、フェニキア本国が征服されるとカルタゴの支配下に入った。ポエニ戦争によってカルタゴが滅ぶとローマ帝国の支配下に入り、属州アフリカの1地域となった。

トリポリは、ローマの属州(アフリカ州)になりつつも生き残ります。そして、トリポリが自立し繁栄したことは、アフリカ出身の初のローマ皇帝セプティミウス・セウェウスが、選出されたことからもうかがえます。
彼の出身地であるレプティス・マグナは、皇帝の威厳を示す凱旋門や劇場などの建築物があり、世界遺産の古代都市で有名です。

1510年にスペインによって征服され、1530年からマルタ騎士団の支配下に入りました。
1551年にオスマン帝国が征服し、西トリポリ州の州都に定められます。
西トリポリ州は1711年から1835年まで、「カラマンリー朝」がオスマン帝国の宗主権下に政権を立てたほかは、1911年にイタリアによって占領されるまで、オスマン帝国の直轄統治下に置かれました。

🟠トリポリの説明(「リビアを知るための60章 第二版」(塩尻和子著)より)

地中海の砦
3000年を生きた都

「トリポリはトリポリタニア三都市のなかでは、歴史を通じて生き延びてきた街である。紀元前一二世紀ころにレバノンからやってきたフェニキア人が、オエアという植民都市を建設して以来、三〇〇〇年を超える長い年月を生き抜いてきた砦の町でもある。フェニキア人、都市国家カルタゴ、ローマ帝国、アラブの侵入とイスラーム化、ビザンティン帝国、大小のイスラーム王朝、スペイン、マルタ島のヨハネ騎士団、オスマン帝国の支配、イタリアの侵略、リビア人のイドリース王をいただく連合王国、そしてカッザーフィーの革命、と地中海世界を中心に、東と西の勢力が交代にやってくるという東西の交流点でもあった。」

1951年 - 1963年:リビア連合王国
1963年 - 1969年:リビア王国
1969年 - 1977年:リビア・アラブ共和国
1977年 - 2004年:社会主義人民リビア・アラブ国
2004年 - 2011年:大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
2011年 - 2013年:リビア
2013年 - リビア国


■イタリア(ナチスドイツ)の過酷なリビア支配

20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地にしました。1912年ローザンヌ条約でオスマントルコ帝国は、サヌーシー教団のリビアに手を焼き、正式にリビアをイタリアに譲渡します。
ところがイタリアのリビア支配は、オスマン帝国の支配とは比較にならないほど過激で、1922年にはムッソリーニが、かつてのローマの属州であったリビアを取り戻すという、リビアのレコンキスタを宣言します。

彼の命令を受けた最高司令官グラツィアーニは、イタリアの法律にも国際法にも縛られずにリビアの反イタリア勢力を殲滅させることについての許可を要請し、ムッソリーニがこれに同意したと伝えられる。
植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人は激しいゲリラ活動を繰り広げました。
グラツィアーニはただちに反対派の制圧に着手した。イタリアはもともと自国が貧しく、リビアを占領した目的がイタリアの過剰農民人口の与えるためであり、リビア人の土地を略奪してイタリアの入植者に与えるという方針を採ったために、リビア人から激しい抵抗を受けました。
特にフェザーン地方での抵抗は激しく、リビアの完全平定は1932年にまでもつれこみました。
この対イタリア(ナチスドイツ)の対戦の中で、リビアの人口の4分の1が減ったといわれています。


■リビアの英雄の一人 ムフタール(砂漠のライオン)

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思想:イスラーム神秘主義
活動:反イタリア抵抗運動
所属:サヌーシー教団

<反イタリア抵抗運動>
1911年、伊土戦争の勃発によりリビアに戦火が及び、10月2日にイタリア海軍艦隊がトリポリに現れ、オスマントルコ軍が降伏を拒否したため、イタリア艦隊が砲撃を開始。3日間に渡る砲撃により街は破壊・占領された。サヌーシー教団はオスマン軍に協力してイタリア軍と戦い、ムフタールも戦闘に参加し、以降20年に渡りイタリア軍と戦うきっかけとなりました。

ムフタールはイドリース王によりリビア司令官に任命され、対イタリア運動の指揮を執ることになりました。ムフタールはキレナイカの地形と砂漠戦に熟知しており、1924年までに各地の反イタリア・ゲリラを指揮下に置きます。ゲリラ戦の際にはイタリア軍の補給ルートと通信施設を集中的に攻撃し、イタリア軍を追い詰めていきました。

1925年4月、イタリア軍の反撃により勢力が減退すると戦術を変更し、ベドウィンや隣国のエジプトからの支援を取り付け反撃を始め、1926年のベンガジでの戦闘では敗北するもののイタリア軍に甚大な損害を与えた。反イタリア勢力は、1927年から1928年にかけて勢力を拡大し、1,000人以上のイタリア兵を殺害しました。、ムフタールはスロンタでの戦闘で負傷し、イタリア軍に捕縛されました。
ムフタールはクルアーンの一節、「私たちは神のものであり、私たちは神に還されなければならない」を唱え、殺されてしまいます。

20年近くに渡り抵抗運動を指揮したムフタールは、「リビア独立の父」としてカダフィとともに、尊敬の対象となっています。

ムフタールの所属した神秘主義教団サヌースィー教団の精神的指導の伝統は、今でもリビア人気質に大きな影響を与えている。サヌースィー教団の活動によって、リビアの人々は、個々の部族の利害関係によって対立するのではなく、遊牧民の伝統と文化を守りつつ、自立した共存社会を形成してきたからであります。

しかしながら、サヌーシー王朝も停滞の時期がきます。
リビアは、オスマン帝国とナチスドイツに蹂躙されてきた、戦火の絶えない国でした。
そうした時代背景の中で、カダフィは若いころから政治に関心を持ち、大きな改革の使命を抱いた人としてリビアに現れたのでした。

・参考図書
「リビアを知るための60章 第二版」(塩尻和子著)明石書店
「カダフィと民族主義 イスラム主義の本質を探る」(最首公司著)ホーチキ出版

次回に続く

2023年2月26日

タンザニア旅行記<予告編>激安バックパッカー大自然の旅


こんにちは。ローズガーデン自然生活です。

4月上旬2週間程タンザニアに渡航予定があり、その準備をしています。

皆様のおかけでやっと長年の夢を実現することができました。

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4/1はエチオピア航空で途中エチオピアのアジスアベバで乗継ぎ、約20時間のフライトになります。

タンザニアで有名な山のトレッキングを申し込みました。ツアー会社はマサイ族のマタタさんの会社です。

結果にこだわらず、勇敢に挑戦してこようと思います!!


マタタツアーズ


<タンザニア渡航のために準備したこと>

・イエローカード(黄熱病予防)
・ダイアモックス錠(高山病予防薬)

もう準備ばっちりです👍

安いのに居心地の良さそうな宿も見つけました。物価も安いし激安バックパッカーの私には有難い所です。

帰りは首都ダルエスサラーム(Dar es Salaam)にも寄って参ります。

タンザニアは雄大な大自然と野生動物がいっぱいです。

しかもあちらは赤道直下で平均気温が30度を超えています。

体力が持つかなあ。。。

今からすごくワクワクしています!!

帰ってきましたら諸々ご報告させて頂きますね。

それではまた再来月お会いしましょう。


ローズガーデン自然生活


2022年11月 5日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ最終回[3]ニコラスおめでとう

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原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ最終回[3]
ニコラスおめでとう!

Primordial spirit
- African modern history / present history - Uganda[3] 
Nicholas Opiyo, please accept my warmest congratulations!

※来月は「原初の精神」はお休みさせて頂きます。

ハーバード大学ホームページにウガンダニコラウス・オピヨ弁護士の紹介ページがあります。

内容が素晴らしいので抜粋を掲載させていただきます。

機械翻訳のため適宜分かる範囲で修正しましたが、誤訳がありましたら、何卒ご了承下さい。

【機械翻訳】


Fighting for human rights in riven land overseen by repressive regime

抑圧的な政権が監視する分断の地で、
人権のために戦う

危険にさらされている学者であり弁護士であるニコラス・オピヨは、ウガンダ内戦中に成長したことが彼の将来をどのように形作ったかを説明しています

ニコラス・オピヨが、1984年から1996年まで暴力的な反乱グループとヨウェリ・ムセベニ大統領の残忍な政府軍との間の内戦に巻き込まれたウガンダ北部の都市、グールでの初めの頃の人生を説明するのを聞くのは困難な事です。

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彼は、主要な反乱主義グループの1つである武将ジョセフ・コニーが率いる神の抵抗軍が、強制的な少年兵士をどのように広く使用したか、政府軍が後にエイズで死亡した家族のメンバーをどのようにレイプしたか、当局がどのように彼の村の住民を「死の罠」となった避難キャンプに強制したかを思い出します。彼は父親の拘留と拷問、髪の抵抗軍による妹の捕獲、「学校に行くために死体の上を歩く」ような時代のことを覚えています。

「それは私の不幸な子供の頃の経験でした」とオピヨは言った。「私は、人口を保護するはずの政府軍と反乱軍の両方による凶悪な人権侵害の最前線の証人として育ちました。」

そのような恐怖は、他人を絶望や暴力に変えたかもしれない。それはハーバード大学の危険にさらされている学者であるオピヨを法律に変えた。人権弁護士として、彼は不公正な選挙法に対するキャンペーン、集会の自由の制限、言論の自由と報道の自由の抑圧、LBGTQ +の権利の促進など、自国の公民権と政治的自由の擁護にキャリアを費やしてきました。

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12月、オランダ外務省は、公民権と自由の擁護と擁護に専念する個人や組織を表彰する毎年恒例の栄誉である2021年人権チューリップ賞をオピヨに与した。ハーグでの受諾式で、オピヨは、この賞は「私たちの仕事の課題を超えて、平和で公正で公正な社会のために戦い続ける」という彼の決意を強化したと述べた。
その仕事は生涯の使命でした。

危険にさらされている学者であり
弁護士のニコラス・オピヨ

(途中省略)

幼い頃から、オピヨは普通の人々の生活に変化をもたらしたいと知り、「脆弱で声なき人々のために」と言いました。少年時代のBBCを聞いて、彼は「世界情勢、時事問題、ニュース、現代的なことに興味を持つ」ようになり、ジャーナリズムを使って不正に光を当てるようになりました。

しかし、1994年いとこのノーバート・マオ(現在のウガンダ民主党の大統領)が、国が新しい憲法を作るのを助けることを目標に議会の最初の選挙に立候補したとき、オピヨの焦点は変わりました。
マオは負けました。「しかし、彼はとても明晰だった。彼はとても刺激的でした。私の世代の多くの人々が彼に魅了された」とオピヨは言いました。「彼は私たちのアイドル、ヒーローになりました。」

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いとこのマオが2年後に再び活動したとき、オピヨはパーソナルアシスタントとして働いていた。「彼は弁護士で、それ以来、私は弁護士になりたかった。私は従兄弟のマオのようになりたいと思い、貧しい人々が彼らの権利を守るのを助けるウガンダ法律協会の法的援助クリニックで働きたかったのでした。
それが私のターニングポイントでした。

オピヨはウガンダキリスト教大学に通い、学期の休憩中に法的研究と法的援助クリニックでの仕事と勉強のバランスを取りつつ、以下のようなさまざまなキャンパスの物事にも関与しました。

ウガンダクリスチャンでの最初の年の学生ギルドミンスターとして、彼は授業料を2倍にしようとしたときに、彼は大学に対する抗議を主導しました。彼はまた、全国高等教育評議会との会議を求め、妊娠中の未婚学生を解雇するという大学の慣行を終わらせるのを助けました。「大学を通して、私は私にとって大切な理由のために次々と人権闘争に関わっていました」と彼は言いました。「私は不正と戦い、大学管理者のハイハンドに立ち向かい、しばしば勝った。」

「私のすべての願いは、私が十分安全だと感じたらウガンダに戻ることです。...それが私が最も必要な所なのです。」

2006年に司法試験に合格した後、オピヨはリーガルエイドクリニックで働き続け、新しくオープンしたグル大学でパートタイムで教え始め、現在は平和と戦略研究所である平和と戦略研究センターの設立を支援しました。

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首都カンパラ


その後、彼はカンパラで国内の人権侵害を監視することのために働いた。2012年、彼は市民の自由の保護に専念する非営利団体である「Chapiter Four Uganda」を設立しました。この組織は、2012年に拷問を犯罪とする法律を可決する成功した努力を含む、さまざまなキャンペーンの原動力となっています。2014年、彼のグループは同性関係を犯罪化した国の反同性愛法を覆すのを助けました。

しかし、その仕事には費用がかかりました。オピヨは、見知らぬ人が彼の顔に唾を吐き、彼を「外国人の代理人」だと非難した事件を思い出しました。家族なかには彼を勘当し、キリスト教の弁護士は彼を全米弁護士会の事務局長の地位から外すために共謀する者もいました。

それでもオピヨは人権と法の支配に対する自らの信念に揺らぐことはなかった。彼は自分の家族に対して犯罪を犯した反乱軍司令官から身を守るのに何年も費やしました。
「この反乱軍の指導者も子供の頃に誘拐された」とオピヨは言いました。

◯以下、Wikipedia より補足:

(オピヨは、ウガンダ政府とジョセフ・コニーの神の抵抗軍との対立の最盛期に、ウガンダ北部のグールーで育ちました。
実は、オピヨの妹、友人や家族の多くは、奴隷、兵士、労働者として働くためにコニーの反乱軍に誘拐されたことがあったそうです。
オピヨはかつて、彼らが家で寝るのを恐れて、むしろ安全だった路上で寝たと告白しているそうです。これらすべての経験は、人権擁護に対する彼の情熱を形作りました。)

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時間が経つにつれて、彼の安全に対する脅威が高まりました。
警察は2020年12月22日にオピヨに降り、彼を目隠しし、マネーロンダリングの告発におり、オピヨを拘留しました。彼はカンパラ郊外の最高警備刑務所に送られました。
彼の逮捕は、市民社会に対する政府の取り締まりと、2021年の総選挙中の政府治安部隊による超法規的殺害の調査に反撃する彼のグループの力によって引き起こされた、と彼は述べました。(ムセベニは、投票不正行為の申し立ての中で6年目の5年間の任期に再選されるだろうと。)

しかし、刑務所の背後でさえ、彼の仕事は決して止まることはありませんでした。
わずか1週間拘留されたオピヨは、仲間の囚人に法的助言を提供し、最終的に68人の安全な釈放を助けました。国際的な圧力の中で、ウガンダ当局はオピヨに対するすべての告発を取り下げ、彼を釈放しました。
8ヶ月後、政府は彼の非営利団体を閉鎖し、そのアカウントを凍結し、オピヨは「より悪質なことを計画している」と恐れました。

オピヨは昨年秋、ハーバード・ケネディ・スクールのカー人権センターが主催するスカラーズ・アット・フェローとしてハーバード大学に到着し、ロイ・リラ・アッシュ民主ガバナンス・イノベーションセンター、ハッチンズ・センター・フォー・アフリカ&アフリカ系アメリカ人研究センター、エドモンド・Jからの追加支援を受けました。サフラ倫理センター、ここ数ヶ月間、彼は授業を受け、講演を行い、研究プロジェクトに取り組み、「大陸の研究関心」を持つ学生が自らを利用できるようにしてきた、とオピヨは言いました。

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しかし、ウガンダへの帰還は彼の未来です。「私のすべての意図は、私が戻るのに十分安全だと感じたらウガンダに戻ることです。私の仕事は本当にウガンダにある」と彼は言いました。「そこが私が最も必要とされているところです。」

彼の故郷では、オピヨは人々はより良い国のために変化を熱望していると述べました。
「私の希望は、国が民主主義の誕生の苦しみを経験し変化することを熱望していることです」と彼は言います。
「変化は近く、国はそのために良くなるだろう。人はそれを切望している。そして、私たちがそのために懸命に働き続ければ、ウガンダを民主的で公正で自由な国にすることができます。」