原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[3]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[3]
エンクルマ大統領
「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [3] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'
クワメはアメリカのリンカーン大学に入学。
ニューヨークでは苦学の日々。それでも彼は学業優秀で主席で大学を卒業します。
◆アメリカ留学の夢にむけて
クワメはアメリカ留学を実現するために貯めたお金をすべて貯金していたそうです。
アメリカ行きの計画を母親に話すと、母親は「神様と先祖様がお前を守ってくださいますように」と言いました。息子がアフリカを離れて、アメリカにいくことを悲痛な思いで受け止めたことでしょう。息子の決心は揺るぎないものであることは知っていました。
12年の長い間親子は離れ離れとなりました。
クワメはまずアキシムからラゴスへ密航しました。
そのあと彼を乗せた船は、まずイギリスのロンドンに着きました。
ここでアメリカ行きのビザ(旅行証)を貰い、それからニューヨーク行きの船がでるリバプールヘ向かいました。
一九三五年十月、クワメはようやくニューヨークへ到着することが出来ました。
アメリカでクワメは、フィラデルフィアの西にあるリンカーン大学へ入ることになりました。
船員に交じって中にはいり、連中の食事を食べ、ボイラー室の窮屈さと暑さに辛抱しながら航海に耐える日々でした。彼は、船酔いに耐え、服はボロボロ、ひげはぼうぼうでした。
ラゴスでは着替えて、ズボンとシャツを買います。
リンカーン大学への入学申し込みは数か月前に出してありました。
アクラのエンクルマ記念公園
◆イギリスのリバプールで旅券を買う
まずイギリスに渡り、アメリカの旅券を手に入れないといけない。
クワメは、親族のお陰で100ポンド持っていたのと、親族のエンサコムの族長が50ポンド与えたので、それでリバプールまでの旅券を買いました。
リバプールについて一週間滞在したのち、クワメはアメリカの旅券をもらいにロンドンへ行きました。
先の見通しは立たず、自分の力に及ばないことをしているように覚え、故郷に帰ろうかと考えもしました。右も左も分からない異国の地で、彼も途方に暮れる気持ちになったことでしょう。
丁度その時、新聞売りの少年が新聞の束をトラックから降ろしていました。みると、
「ムッソリーニ、エチオピア侵攻」という張り紙を見つけました。
その一瞬、ロンドンの全部が自分に宣戦布告をしているように感じられたのでした。
クワメは植民地主義を倒すために働く日がくることを祈りました。
その目的を達成するためなら、私は地獄へでも行こう、と決心をしたそうです。
ニューヨークについたのは初秋の10月の終わりごろで、故郷の平和と静けさから抜け出した私は
巨大な建物と、尽きることのない群衆に押し流されていました。
一種のおののきと、幸せで明朗な雰囲気がありました。
1954年に生まれたリンカーン大学は、合衆国内の黒人に高等教育を与えて、黒人社会に有用な指導者を育てることを目的とした最初の教育機関です。
この大学を計画し、創設したのは、長老派の宣教師でした。
アフリカからの旅がとても長かったので、リンカーン大学についたときは、クワメが用意してきたわずかな金は、殆ど無くなっていました。
それでも学校だけは卒業しようと決心していたので、アルバイトで働きながら学校へ通いました。
夏休みには船員になり船でも働きました。船の仕事が一番、お金が取れるからでした。
しばらくすると毎日曜、ある黒人教会で説教師の仕事をすることもできました。
カラフルなカカオの実
◆12年の苦しい留学生活、その後フリーメーソンの会員になる
リンカーン大学へ着いたときには私の所持金は40ドル、中学校の免状、リンカーン大学への紹介状
次の試験でよければ、リンカーン大学で第一学年の編入を認めました。
試験を受けて入学資格を獲得します。
私はいつも主席と自席の学生でしたので、リンカーン大学ではずっと奨学金をもらっていました。
奨学生の為に学内では2つのアルバイトがあり、一つは図書館の助手、一つは食堂の給仕でした。
私はそれ以外のアルバイトを見つけて、学生のレポートを一回一ドルで引き受けたりしました。
弁論大会で、私は2位になり、金のメダルをもらうことができた。
また、クワメはアメリカにいる間にフリーメーソンの会員にもなったそうです。
彼は、世界を政治的、経済的に支配する秘密結社の存在にも気づき、そうした組織の力も知るようになったのでした。
1942年、リンカーン大学を主席で卒業し、神学士の号を得ました。
慣例に従い、その年の卒業の演説もさせられました。
クワメはよく本に親しみ、主に政治や哲学書、主にドイツの哲学者へーゲルや、同じくドイツの政治家マッチュイ、ロシアのレーニンの本を好んで読んでいたようです。
だが一番強い影響をうけたのは、マーカス・ガーヴェイの『哲学と評論』でした。ガーヴェイは、アフリカ人の自由を叫んで戦った先駆者の一人でした。
◆自由の国アメリカに存在する差別
学校を出ていたにもかかわらず、クワメの生活は貧乏生活であり、常に働くことを考えなければなりませんでした。下宿代を節約するために、NYのハーレムからブルックリンまで、一晩中運転する地下鉄に乗って過ごすこともあったそうです。
クワメは友達とフィラディルフィアの駅の待合室で、夜を過ごすこともありましたが、警官は二人を公園に寝るように追い出したそうです。
自由の国アメリカでも、黒人はまだまだ人種差別の壁は厚く、生活に困窮することがよくありました。
レストランで水を下さい、とお願いすると「出ていけ。黒人のお前は、そとのたん壺でたくさんだ!」
と怒鳴って追いやられました。
◆生きていくためにNYで様々な仕事をする
エンクルマは在学中に研究費を稼ぐために、造船所で働き、深夜の12時から翌朝8時まで働きました。過酷な労働と寒さの中で肺炎になり、ガタガタ震えて救急車に運ばれて、酸素室に入れられたこともありました。
このころのエンクルマは仕事と研究で24時間ぶっとおし頑張り続けたため、体を壊しかかったのでした。彼は差別と貧困のなかで何ども故郷ガーナに帰ることを考えたのでした。
リンカーン大学で夏休みを迎えたときに、学業終了後は学生の大学構内にとどまることが禁止されていたので、かれは途方にくれました。
NYに行き、ハーレムに住んでいたアフリカ人の所で寝泊まりをしました。彼も自分に劣らず貧乏人で、仕事の探す相談をしたのでした。
二人が見つけた仕事は魚の市場で卸値で買った魚を街角で売る仕事でした。エンクルマは魚アレルギーがあり、全身にかゆい吹き出物がでました。
然しながらこの仕事も続かず、とうとう寝る場所も失う羽目になりました。
これからどおしたものかと考えてぶらぶらしていると、リンカーン大学時代の友人が部屋を貸してくれて、仕事が見つかるまで置いておいてくれたりしました。
石鹸工場にしごとを見つけたのもこのころでした。
バラの花の香りを毎日身に着けて仕事場から帰れると想像していたが、外れていました。
この工場での仕事は、、これまでにないほど不潔で、不快なものでした。
動物の腐った内臓や脂肪のかたまりを、トラックから庭へ放り出される。
この悪臭をはなつ、不潔極まりない塊を、熊手で押し車にのせ、処理工場へ次から次へ運ぶ仕事は不快を極めたのでした。
日がたつにつれこの仕事になれるばかりか、吐き気を抑えるのに苦労したのでした。
1939年第二次世界大戦がはじまるまで、私は船乗りの仕事を続けました。
初めてこの仕事に就いたとき、船会社の職員がぶっきらぼうに「ウェイトと給仕の両方の仕事ができますか?」
私は不採用がこわくて、「出来ます」と答えて採用してもらい、船に乗り込むことになりました。
食堂の給仕らしいスマートな服をきせられ、料理を運ぶ仕事をしました。
次の更改のときには、食堂の規則も、料理の名前も覚えたので、船員食堂の給仕に出世しました。
この仕事はチップもよく、一日三食の食事がもらえ、しかもスマートな制服も帽子ももらえて気に入っていたのでした。
戦争が勃発して、船乗り生活が終わってしまい、クワメは心から残念だと思いました。
港町の街路をあるきながら、誰も自分のことを知らず、いつ殺されても心配されることもない身でした。アメリカの空の下で野宿するよりは、故郷のアフリカの星の下で、寝る方が、蚊の銃撃を受けるにしてもはるかに幸福であることを思いつつ。
エンクルマは、黒人のいろいろな宗教の集まりや信仰復活運動の集会を次々に尋ねまわったそうです。その中で特別に興味をひかれたのは、精霊神父の会のひきいる運動でした。この会にはいると素晴らしい特典があり、おいしいチキン料理を半ドルで食べることができたり、一ドルの散髪を数セントにしてもらったりと、貧乏学生には魅力的な会でした。
フィラディルフィアにいるときに、黒人を宗教的、社会的に経済的見地から調べる機会を与えられました。フィラディルフィアに住む600の黒人家族の調査を通してアメリカ合衆国、特に何部の激しい人種差別の実態を知り、黒人差別問題に目をむけるきっかけとなりました。
彼自身も黒人差別のひどさは身にしみて分かっており、カラカラにのどが渇いても一杯たりとも水を与えず、「たんつぼでも飲め!」といわれて追いやられたこともありました。