国家への忠誠心が飢餓を生む
著者の楊継縄氏によれば、当時の各省の飢饉の度合いは、その省の毛沢東政治に対する求心力の度合いによって異なったという。求心力の強い省ほど飢饉の打撃は強く、弱い省ほど飢饉は軽く、死亡率も低くかったのである。
例えば飢饉の度合いが低かったのは、辺境のウイグル自治区1.567%であり、内蒙古自治区は0.94%、チベット自治区も低かった。いずれも漢民族の幹部による政治的求心力が低い地域である。
(しかしながら少数民族の問題は、現在まで極めて不幸な差別や独立自治という別の問題を孕んでいる。)
大量の食糧が輸出されていた
1960年1月農民が大量に餓死していたときに、党中央は食糧の放出を考えないばかりか、国家の食糧在庫を引き続き増やそうと腐心していた。餓死者がもっとも多かったこの年に、国には数千万トンの食糧在庫があったにもかかわらず、それを放出して人々を救おうとしなかった。ちなみに公共食堂での配給は一日一人あたり100グラム程度であり人間が到底生きていける量ではなかった。もし国が食料倉庫を開放していればかなりの飢えは防ぐことができた。
そもそもこの国は中国共産党が成立する前は、食糧の自給自足ができたのである。国民の幸せをここまで破壊したことは許しがたい大罪である。
またこの飢餓が深刻な時期に、中国では大量の食糧が輸出されていたという。1957年の計算によると、500万トンの穀物があれば、2450万人が一年間食べるのに十分であった。それなのに、一番被害が深刻な1960年には、272.04万トンが輸出されていた。輸出されていたのは穀物だけではなく、油や卵、肉、果物など当時非常に貴重な食糧も大量に輸出されていたのである。
文化大革命で悪魔の復活
「大躍進」の失敗により毛沢東に対する反対勢力は拡大した。しかしながら彼に捨て身の諫言をした人間たちが一次的に巻き返したものの、文化大革命(1966年から1976年まで。1977年に終結宣言。)では大量の粛清が行われ、あっと言う前に失脚した。この文革で毛沢東のカリスマ性と悪魔性が復活し、約2000万人が犠牲になったと言われる。この中国共産党の悪いところは一重に「暴力の肯定」である。
昔の中国は康熙帝のように、子供の数で払う人頭税を、家の戸数毎に支払う税制に変え、税金を安くしたような尊敬すべき皇帝もいたという。しかしながら中華人民共和国の発足により偉大なる孔孟の精神は失われたのである。
<<出典>>
『毛沢東大躍進秘録』
楊継縄著(元新華社通信高級記者)
『常識ではあり得ない中国の裏側』
陳破空(在米民主化運動リーダー)
毛沢東時代の中国史はこれで終わりとなります。
次回はチベット自治区の歴史考察ですが、
しばらくお休みいたします。