原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[2]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[2]
エンクルマ大統領
「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [2] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'
◆アフリカの明星が生まれる
エンクルマは1909年9月21日、イギリス領の植民地黄金海岸(ゴールド・コースト)の西部海岸にあるンクロフルにて、アカン人鍛冶屋の家に生まれました。
ガーナ南部のアカン人のあいだでは生まれた曜日と性別によって自動的に名前が決まるため、土曜日に生まれた男児である彼には「クワメ」の名がつけられました。
◆赤ん坊に命を吹き込む
エンクロフルの村では、誕生、結婚よりも死者の葬式の方が大切に扱われ、あの世で死者が楽に暮らせるようにと、金や着物を一緒に埋めて葬儀は数週間にも及びました。
たまたま彼の誕生の日は、彼の祖母がなくなったので村で大きな葬儀の日とかさなったそうです。そのため、エンクルマの生まれたことに村人は注意を払わなかったそうです。ところが、しかし私の生まれた場所では、私が長い時間、生きている兆候を全然しめさなかったため、皆が心配しはじめました。
母は赤ん坊(エンクルマ)が死んだと思い込んで、すべてをあきらめてしまいました。これは無慈悲に聞えるが、そうではありません。
アカン族のあいだでは、母親が子供の死を悲しむと不妊になると信じられており、不妊はアフリカの女性にとっては最悪のことだったのでした。
しかし葬式からもどってきた親類の女たちは、簡単にはあきらめませんでした。
赤ん坊に生命を吹きこもうとして、シンバルやその他の楽器でできるだけやかましい音をたてる一方、私をふったり、赤ん坊(エンクルマ)の口にバナナをつっこんで咳をさせて、息をひきだそうとさえしました。
ついに女たちは、赤ん坊(エンクルマ)の生命をひきだすことに成功しました。
女たちは努力をやめて、泣いて足をけあげている土曜日の赤ん坊を、心配している母の手に渡しました。
◆クワメの優しい両親
クワメの父は強い性格の持ち主でしたが、子供には非常にやさしく、自分の子どもを心からほこりにしていました。父が私に向かって手を上げた記憶はありません。
母は、私が思い通りにならないときに一度家族が食べるシチューに鍋つばをはいたときに、おそろしくきつく打ったことがあったそうです。
クワメが三つになったとき、母はクワメをつれて、ハーフ・アシニイ町の父のところへ行きました。
父はここで、金細工の職人をしていました。
ハーフ・アシニイ町はエンクロフル村からは八〇キロもなれていて、フランス領アイボリイ・コースト(象牙海岸)との国境にある港町でした。
もちろん乗り物などは何ひとつない。この長い道のりを、三つになったばかりのクワメは歩いて行きました。
クワメの家はあまり裕福ではなかったが、けれどもそのかわり、自由に遊べる入江や海や、川、茂みや森がありました。
クワメは一人で遊ぶのが好きでしたので、自然の中を散歩したり、鳥やけものをさがしたりして、時を過ごしていた。小鳥やリスをペットとして大切に持ち帰ったりもしました。
また、精霊に取りつかれたかのように時々気性が激しくなり怒りを表す子供でした。
ある日、異腹の姉の結婚相手となった男性が家に来た時、エンクルマは魔物に取りつかれたように金切声をあげ、その結婚相手の男を蹴ったそうです。
その男は仕方なく家から逃げて帰りました。
◆神学校教師になるまで
エンクルマは学校では非常に熱心に勉強しました。
父親が毎月3ペンスの授業料を払うことができなくなりそうで、エンクルマは鶏を飼い始め、毎月鶏を売って6ペンスを得ました。これで学費の一部を補い、本を買う余裕もできたそうです。
当時のガーナの初等学校の教師は暴力的で生徒を棒でたたき、生徒たちは彼らの暴力を恐れていた。
ひそかに「教師がいなければどれだけ自由に学びができ、学校は楽園いなるのだろうか」と、エンクルマは思っていたようです。
このころ彼はローマカトリック教会の洗礼を受けたそうです。
◆17歳で教師となる。教え方が上手く評判を得た
1927年に首都アクラのアチモタ・スクールに入学し、1930年に卒業後、エルミナのローマ・カトリックの小神学校の教師となり、1年後にはアクシムのカトリックの学校で教鞭をとり、さらに2年後には近郊のアミサノで神学校教師となりました。
アチモタ大学はその頃できたばかりの大学で、アクラの近くにありました。
このアチモタ大学でクワメはアグレイ先生を知ることができました。
アグレイ先生はその頃の西アフリカでは、もっともすぐれた黒人の教育者でした。
◆民族主義への目覚め
アグレイ先生の生涯の最大の目的は『人種の調和』ということでした。
植民地主義のはびこる時代にアグレイ先生のメッセージは重要な意味を持っていたのでした。
「君たちはピアノの白いキイを使って、一つの調子を出すことができました。
また黒いキイを使っても、調子を出すことができました。
だが全体のハーモニーは、黒と白、両方のキイを使わなければ、つくることができない。」
アグレイ先生はクワメが大学に入ってまもなくのころ、アメリカで亡くなったそうです。
彼の影響でクワメの魂のなかに、アフリカ独立への情熱が赤々と燃え始めました。