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2025年5月 1日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[5]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[5]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [5] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
The_National_Archives_UK_-_CO_1069-50-1.jpgのサムネール画像

◆逮捕と拘留の試練

エンクルマはケープ・コーストで、プロスペクト・ヒルに手ごろな家を借りました。

新しい事務所の再整備にそれからの数週間を忙しく過ごしていましたが、そのあいだに統一黄金海岸会議の六人のメンバーを検挙する準備が進められているという知らせが届きました。

所がその日の夜、彼はロンドンで得た共産党の党員証を保持していたことで疑われて、逮捕拘留されてしまいます。


<「わが祖国への自伝」より引用 P83>

ソートポンドにもどると、借りた事務所から出ろと、ユーナイテッド・アフリカ会社が要求しているという知らせをうけた。この突然の立退命令の背後に誰がいるのか正確にはわからなかったが、事件が偶然にも一致して起ったことから、アクラの騒擾に私が関係していると政府が信じて手をまわしたことは、まずまちがいないと思われた。

翌日、私はケープ・コーストに移り、プロスペクト・ヒルに手ごろな家を借りた。私は新しい事務所の再整備にそれからの数週間を忙しくすごしたが、そのあいだに統一黄金海岸会議の六人のメンバーを検挙する準備が進められているという知らせがふたたびとどいた。のちに六幹部として有名になったのは、ダンク、オフォリ・アッタ、アクフォ・アッド、 アコ・アジェイ、 オベツェビ・ラムプティと私である。

その夜私は、ヨーロッパ人の巡査部長二人と私服二人に突然たたきおこされた。起きて、いっしょに来い、彼らはあらあらしく命じた。眠りを中断されてまだ寝ぼけ眼でいる私を、彼らは細心に身体検査して、二つの物品を発見した。この二つの物品に彼らのしめした興味と、私からそれを奪った一人が満足そうにうなずいたことから判断すると、これで私に対する嫌疑が確認されたようであった。

この二つの物品というのが、ロンドンでもらってその後長いあいだ忘れていた未署名の共産党の党員証と<サークルVの文書だった。この二つを押収してから、党員証をポケットにいれて何をするつもりでいたのかとたずねられた。「ほんとうはイギリスの共産党員だったのだろう。どうだ?」と聞かれた。

この党員証にはなんの意味もないことを私は正直にいい、それをどこでもらったかもかくさずに話した。イギリスにいたときは極右から極左までの政党に関係したが、それは他日故国へもどったとき、民族主義政党を組織するために役立知識をすこしでも多くえておきたかったからだと説明した。


「公衆の保全を保証し、秩序を維持するため、緊急布令の25条をもとに彼に移住命令を発する。」四人の警察官にびったりとくっつかれて不快極まりない態度の警察どもに連行されたのでした。

一切があまりに急におきたので悪夢のようだったそう。
警察の護送車で数時間走ったあとに、飛行場にとまり、彼はクマシの刑務所に入れられてしまう。エンクルマの仲間は、泣き出し「こんなことをしやがって。あいつらを絶対にゆるすものか」と叫びました。

すごいことに、刑務所にいる間にもエンクルマの政治活動は止まりませんでした。

エンクルマは自分の仲間と会合をひらき、様々な問題を議論した。影の内閣や将来の憲法について様々な計画を立てたそうです。

拘留3日目に、アシャンティの青年たちが、刑務所を襲撃して私たちの仲間を救い出す計画を立てていたのでした。だた、刑務所当局は私たちを移動させたので、計画は未発令に終わりました。

のちに彼はバスで、首都タマルの刑務所に移動された。この拘留の間、完全に独りぼっちであったわけではありません。

毎晩きまって、一匹のマングース(キツネザル)の訪問を受けたからです。夜中私は彼と一緒にすごし、目を覚ますとこのかわいい動物が私の横で眠っているのを見つけることがあったそうです。

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◆8週間で釈放され、自由の空気を吸う

8週間ほど拘留されたのち、私はアクラに戻され、リスボンホテルに入れられました。

この逮捕の騒動のあとで、調査委員会が組織されました。

調査委員会は総督が王室顧問弁護士、エイケン・ワトソン氏を長として設けたもので、当時オックスフォードのリンカーン大学総長などがメンバーになり、逮捕されたメンバーが出頭できるように、釈放を要求しました。これが認められて、8週間で私たちは再び自由の空気を吸うようになりました。

調査委員会は、アメリカやイギリスで何を勉強したか、あれこれ彼を調べた挙句、報告書を発表しました。

「エンクルマ氏の経歴は非常に複雑であるが、アメリカとイギリスで非常に広範囲の教育をうけ、両国に滞在中は、いわゆる進歩的なアフリカ政策の推進を目標とするあらゆる政治団体で指導的な立場を果たしたと思われる。イギリスにいる間は共産党に加入して、政治的便宜主義を軸とする共産主義に感染したようだ」

この報告書では「黄金海岸の政治情勢について、当時施行されていたバーンズ憲法が時代遅れである」という結論に達し、アフリカ自身の起草したもっと民主的な憲法に取り換えることを勧告しました。

民衆はある程度の政治力を持つことを許されるべき、というのが彼らの一致した意見でした。結論から言えば前向きな形で今回の逮捕は収束したといえるでしょう。

「逮捕と拘留、そして調査委員会への報告、釈放」を通して彼のイメージは一貫して打倒帝国主義の路線を外れることなく揺るぎない信念のもとに前進していることが明らかとなったのでした。

ガーナの女性
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◆アクラ・イブニングニュースの発行

そののち、活動の前衛となった新聞「アクライブニングニュース」が発行されることになりました。

<「わが祖国への自伝」より引用 P83>

クロッパー印刷機を分割払いで買う話をつけ、アクラのある印刷屋がそれを自分のアウスコ・プレス印刷所においてくれることになった。 編集助手一人と機械を動か少年四人に手伝ってもらって、私の新聞アクラ・イヴニング・ニューズ"の第一号が、一九四八年九月三日実行委員会が私を総書記の地位からおいだしたその日――にできあがった。

最初から〝アクラ・イヴニング・ニューズ"は運動の前衛となり、その主要な宣伝・煽動・動員・政治教育者となった。その紙面をとおして民衆は毎日、自由のための闘い、腐敗した植民地制度と帝国主義の仮借ない非道さを心に刻みこまれた。

資金がないために、最初はペラ一枚の新聞しか出せなかったが、それには主論文、 社説、〝煽動者のコラム"のほかに、人びとからもっとも怖れられ、噂のタネにもなった散歩者(ランブラー) 〔十八世紀にジョンソン博士が主宰した雑誌の名前で、句に富んでいるので有名になった〕というコラムがあった。




2024年10月 4日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[2]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[2]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [2] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
 
The_National_Archives_UK_-_CO_1069-50-1.jpgのサムネール画像
◆アフリカの明星が生まれる

エンクルマは1909年9月21日、イギリス領の植民地黄金海岸(ゴールド・コースト)の西部海岸にあるンクロフルにて、アカン人鍛冶屋の家に生まれました。
ガーナ南部のアカン人のあいだでは生まれた曜日と性別によって自動的に名前が決まるため、土曜日に生まれた男児である彼には「クワメ」の名がつけられました。

◆赤ん坊に命を吹き込む

エンクロフルの村では、誕生、結婚よりも死者の葬式の方が大切に扱われ、あの世で死者が楽に暮らせるようにと、金や着物を一緒に埋めて葬儀は数週間にも及びました。

たまたま彼の誕生の日は、彼の祖母がなくなったので村で大きな葬儀の日とかさなったそうです。そのため、エンクルマの生まれたことに村人は注意を払わなかったそうです。ところが、しかし私の生まれた場所では、私が長い時間、生きている兆候を全然しめさなかったため、皆が心配しはじめました。

母は赤ん坊(エンクルマ)が死んだと思い込んで、すべてをあきらめてしまいました。これは無慈悲に聞えるが、そうではありません。
アカン族のあいだでは、母親が子供の死を悲しむと不妊になると信じられており、不妊はアフリカの女性にとっては最悪のことだったのでした。

しかし葬式からもどってきた親類の女たちは、簡単にはあきらめませんでした。
赤ん坊に生命を吹きこもうとして、シンバルやその他の楽器でできるだけやかましい音をたてる一方、私をふったり、赤ん坊(エンクルマ)の口にバナナをつっこんで咳をさせて、息をひきだそうとさえしました。

ついに女たちは、赤ん坊(エンクルマ)の生命をひきだすことに成功しました。
女たちは努力をやめて、泣いて足をけあげている土曜日の赤ん坊を、心配している母の手に渡しました。

首都アクラ
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◆クワメの優しい両親

クワメの父は強い性格の持ち主でしたが、子供には非常にやさしく、自分の子どもを心からほこりにしていました。父が私に向かって手を上げた記憶はありません。

母は、私が思い通りにならないときに一度家族が食べるシチューに鍋つばをはいたときに、おそろしくきつく打ったことがあったそうです。

クワメが三つになったとき、母はクワメをつれて、ハーフ・アシニイ町の父のところへ行きました。
父はここで、金細工の職人をしていました。

ハーフ・アシニイ町はエンクロフル村からは八〇キロもなれていて、フランス領アイボリイ・コースト(象牙海岸)との国境にある港町でした。
もちろん乗り物などは何ひとつない。この長い道のりを、三つになったばかりのクワメは歩いて行きました。
 
クワメの家はあまり裕福ではなかったが、けれどもそのかわり、自由に遊べる入江や海や、川、茂みや森がありました。

クワメは一人で遊ぶのが好きでしたので、自然の中を散歩したり、鳥やけものをさがしたりして、時を過ごしていた。小鳥やリスをペットとして大切に持ち帰ったりもしました。

また、精霊に取りつかれたかのように時々気性が激しくなり怒りを表す子供でした。
ある日、異腹の姉の結婚相手となった男性が家に来た時、エンクルマは魔物に取りつかれたように金切声をあげ、その結婚相手の男を蹴ったそうです。
その男は仕方なく家から逃げて帰りました。

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カカオの実

◆神学校教師になるまで

エンクルマは学校では非常に熱心に勉強しました。

父親が毎月3ペンスの授業料を払うことができなくなりそうで、エンクルマは鶏を飼い始め、毎月鶏を売って6ペンスを得ました。これで学費の一部を補い、本を買う余裕もできたそうです。

当時のガーナの初等学校の教師は暴力的で生徒を棒でたたき、生徒たちは彼らの暴力を恐れていた。
ひそかに「教師がいなければどれだけ自由に学びができ、学校は楽園いなるのだろうか」と、エンクルマは思っていたようです。
このころ彼はローマカトリック教会の洗礼を受けたそうです。

◆17歳で教師となる。教え方が上手く評判を得た

1927年に首都アクラのアチモタ・スクールに入学し、1930年に卒業後、エルミナのローマ・カトリックの小神学校の教師となり、1年後にはアクシムのカトリックの学校で教鞭をとり、さらに2年後には近郊のアミサノで神学校教師となりました。

アチモタ大学はその頃できたばかりの大学で、アクラの近くにありました。
このアチモタ大学でクワメはアグレイ先生を知ることができました。
アグレイ先生はその頃の西アフリカでは、もっともすぐれた黒人の教育者でした。

◆民族主義への目覚め

アグレイ先生の生涯の最大の目的は『人種の調和』ということでした。
植民地主義のはびこる時代にアグレイ先生のメッセージは重要な意味を持っていたのでした。

「君たちはピアノの白いキイを使って、一つの調子を出すことができました。

また黒いキイを使っても、調子を出すことができました。

だが全体のハーモニーは、黒と白、両方のキイを使わなければ、つくることができない。」

アグレイ先生はクワメが大学に入ってまもなくのころ、アメリカで亡くなったそうです。
彼の影響でクワメの魂のなかに、アフリカ独立への情熱が赤々と燃え始めました。