2025年2月15日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[4]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[4]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [4] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
The_National_Archives_UK_-_CO_1069-50-1.jpgのサムネール画像
 
◆ロンドンへ。そして黄金海岸へ帰国する。

十数年住み慣れたアメリカNYをいよいよ離れ、ロンドンに向かう日が来ました。彼がロンドンへいった目的は、法律を勉強する一方、博士号をのための論文を完成させるためでした。

このためロンドンにつくと、すぐにグレイ法学協会に入会し、ロンドン経済大学の聴講生にもなりました。それ以外にも論理実証哲学の研究も学問の対象としていました。
然し数週間で、私はロンドンの政治活動に興味をもつようになりました。

◆あらゆる政治活動に参加する

私はアメリカにいたときのように、あらゆる政治活動や政党に顔を出しました。
最初に行ったのは、『西アフリカ学生同盟』というグループに入って活動し、のちにはそこの副会長になりました。
この会は西アフリカの状態の改善を植民省に嘆願することを煽動するなど学生の経済支援も行うなど、有力な団体となりました。

ロンドンについて一か月のちに、マンチェスターの「汎アフリカ会議」の準備に謀殺されました。
西インドの新聞記者ジョージ・バドモアと私は共同秘書となり、様々な活動をしました。
他にもアフリカ出身のアメリカ学者であるデュポイス博士と英領ギニアの医師ピーター・ミリアード博士の共同議長のもとで開かれました。
会議は大変な成功で、全世界から200名を超える代表が出席しました。
各植民地の状態についての報告があり、そして、資本家の意見は否決され、非暴力的積極行動の戦術によるアフリカ的社会主義という思想が満場一致で採決されました。

帝国主義に対するいくつかの宣言が、この会で採決されたが、主には、植民地民衆の自由への決議を擁護し、資本の独占、真の民主主義は経済上の民主主義の上に成立することを明らかにし、世界を帝国主義の魔物から救うために、連帯責任をもつように訴えました。

第五回汎アフリカ会議は、これまでの第四回までの時とは、だいぶ様相が違っていて、有色人種学生や農民、労働者が多数を占めるようになっていました。

これがエンクルマの政治的活動のスタートともいえるのではないでしょうか。歴史を変える歯車がいよいよ廻り始めたのです。
また、エンクルマに影響を与えた西インド・ジャマイカの黒人運動指導者マーカス・ガーウェイは<アフリカへ帰れ>の運動によって、1920年代のアメリカの黒人たちを強く鼓舞しました。

後にエジプトのナセルと対話するエンクルマ
320px-Nkrumah,_his_family_and_Nasser,_1965.jpg

◆貧しい生活と差別の中で

ロンドンでもまた、クワメは人種差別の苦い経験を味わわなくてはなりませんでした。
どこへいっても下宿を断れたようで、最後にみつけたのは、イースト・エンドにあるみすぼらしい一軒の家の貸間でした。
いつもキャムデン街か、トッテンハムコート街の大衆食堂に入って、茶を一杯のみ、懐の許すときは、ぶどうぱんかロールパンを一つ買って、いつもここに集まる様々な人々に政治について
何時間も議論していました。食堂の主人は、よほどのよい人物だったと見えて、出て行けといわれたことは、全然ありませんでした。

西アフリカの民族事務局を支持していた学生は、討論の為に定期的に集まっていた。

サークルのメンバーは、アフリカ大陸のどこへ行っても革命的な活動ができるように、自分を鍛え始めた。
彼らは事務局の特別奉仕団のような存在になり、ほんの計画と活動を推進し、講座や討論会を開いた。

◆黄金海岸へ帰国する

さて故国ガーナでは日を追ってアフリカ人の自治を求める運動が活発化していました。

特にゴールドコーストから多くの青年たちが海外、とくにイギリスで勉強し、権利やヒューマニズムといった思想を取り入れるようになっていたからです。

。第二次世界大戦のに従軍した青年たちが、インド、パキスタン、セイロン、ビルマなど世界各地で植民地と権利、独立のために戦う世界をみてきたこもあり、原住民からそうした独立を求める意欲はますます高まりました。

 『アフリカはエンクルマの夢の恋人』と、かつて友だちがうたった故国ゴールド・コースト。

指導力と強い知識を持ち合わせたリーダーが待望され、エンクルマはそのような期待を背負ったのでした。

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エンクルマが創設したクワメ・エンクルマ科学技術大学
Kwame_Nkrumah_University.jpg

◆1947年11月 帰国と母親との再会

12年も分かれていたの母親と再び顔を合わせて、お互いにある種のショックを受けました。

母の目はかすんでしまい、白髪で、昔の美しさを失っていたのでした。

そして母親の姿が小さく見え、体が弱ってきたためであろう。。

しばらく私の顔を見つめて、放蕩息子だとわかると、母親の感情は堰を切って溢れ出しました。

母が私を引き寄せて抱きしめたときに、不快すすり泣きで泣いているのが分かりました。

そして、急にお互い笑い出したかと思うと、12年の間にそれぞれおきたことを話しました。

また将来の私の政治的な考えのことを母親に打ち明けました。

当時の黄金海岸での政治運動組織は容易ではありません。

苦しい旅をしなければならず、道路は凸凹だらけでした。頑丈な自動車を持っていれば少しは楽になったが、私に与えられた自動車は旅の終わりまでつかれるものではなかったのです。

そのころの私は全財産、洋服2まい、靴二足、下着数枚、これらは小さなスーツケースに楽に入る。
当時のかれのもちものはこれだけ。
彼は広い国をすみずみまで歩き回って、集会をひらき、人々とであい、何百回も講演をしました。