原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[1]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[1] エンクルマ大統領
「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [1] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'
◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。
「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
今月より、本編を含む数回に分けてガーナ初代大統領の自伝をご紹介させて頂きます。
エンクルマは、独立運動を指導したエンクルマは非暴力不服従を掲げて、イギリスと粘り強く交渉し、57年に独立を勝ちとりました。彼は「ガーナ独立運動の父」と呼ばれています。
彼の生涯をみて多分多くの人が「天才的な戦略家」であるという印象をもつのではないでしょうか。
この本を読み終わり、思わず
「この自伝は絶対、映画化してほしい!」
彼の情熱と勇気と英知に満ちていて感動の連続でした。
まさしく黄金海岸(ゴールドコースト)に解放の光をもたらす使命を持って、生まれてきた方だったのでしょう。
アメリカのリンカーン大学留学時代にエンクルマは独立の新星として同級生にも、政治的に大変期待され、詩を贈られていたそうです。寸暇を惜しんでよくアルバイトに励み、大変働き者でした。
そんな彼が数十年後に達成したガーナ独立。その後アフリカの年には、17か国が続いて独立を果たしたといわれています。
3月5日ガーナ独立の日、数多(あまた)の群衆が首都アクラの広場に集まったそうです。
歓声とどよめきの中、夜中の0時にイギリスの国旗が降ろされ、ガーナの三色旗に入れ替わりました。
どんな気持ちでガーナの人々はこの日を待ち望んでいたことでしょう。
多くの偉業を果たしたエンクルマの政治経済はアフリカの模範となり、世界中が注目するようになりました。
黄金海岸とアシャンティ王国
ちなみに「黄金海岸(ゴールドコースト)」という言葉を聞いて、どんな所か想像できますでしょうか。
ここは現在のガーナのあるアフリカ西岸のギニア地方にあり、かつては「アシャンティ王国」という黒人国家が栄えていましたが15世紀からポルトガルのアフリカ植民地支配がはじまり、盛んに黒人奴隷が行われていたのです。
アシャンティ王国は、初代のオセイ・トゥトゥが小王国を組織・統一したのち首都を現在のクマシに創設しました。
アシャンティ王朝の権力のシンボルとして、天から授かった黄金のスツールに座る者が最高権力を得たという伝説があります。
欧州でのパワーがオランダからイギリスに移ったように、ガーナにおいてもイギリスの支配下へ移ります。
19世紀にはガーナはイギリス植民地となります。そののちイギリスとの戦争に敗れた最後の若き王プレンペーはセーシェルに流されたといわれています。
ポルトガルによるアフリカ黒人奴隷貿易の記憶を忘れないための世界遺産「エルミナ要塞」は現在のガーナにあります。こんなひどいことをした、かつてのキリスト教徒たち唾棄すべき人間たちではないでしょうか!
この本の著書の前書き抜粋ですが、とても良い内容なのでぜひご一読ください。⇒※A
前書きを読んだだけで当時の彼の独立に対する情熱や戦略が伝わってきてとても感動致します。
エチオピアのアディスアベバに中国の支援で建設された現在のアフリカ連合本部前には金色のエンクルマの像が配置されているみたいです。
いつか私も西アフリカのガーナを訪ずれてみたいです。
◆前書き抜粋 ※A
「インドのガンジーの非暴力の影響を受ける」
アメリカでの勉学の終りのころに、リンカーン大学をふくむいくつかの黒人大学から講師になるようす
すめられた。それは生活のためのたたかいの一つの終点を、ひそかに私が望んでいた環境での苦労のない快適な生活を、約束してはいた。しかし、すでに十年以上もまえから燃えあがり、はげしく燃えつづけている民族主義の炎を、そのために心から消すことはできなかった。
黄金海岸の独立こそは私の目標だったのである。黄金海岸は植民地であり、植民地主義とは、外国が経済上の利益を追求することを最高の目的として他の領土を政治的にしばりつける政策である、と私はいつもみなしていた。植民地制度が多くの領土で騒擾や政治危機をまねくのは当然である。 植民地支配から、できることなら脱したいと願わない民衆はいないからである。
当時、私は革命家と彼らのやり方を熱心に研究した。とくに私の興味をひいたのは、ハンニバル、ク
ロムウェル、ナポレオン、レーニン、マッツィーニ、ガンジー、ムッソリーニ、ヒットラーである。私
は、摂取する価値のある多くのこと、のちに帝国主義に対する闘争で役立った多くの思想を、発見した。
ガンジーの非暴力の哲学が役に立つとは、最初私にはとうてい思えなかった。それはまことにひ弱く
て、成功の見こみはないと思われた。植民地問題の解決は武装反乱によってのみ可能だ、と当時の私は考えていたのだ。武器も弾薬もなしに革命に成功することがどうしてできよう、と私は自問した。
しかしガンジーの政策を長いあいだしらべ、それが強い政治組織に支持された場合にもつ効果を目撃して、この非暴力哲学が、いかに植民地問題の解決に役立つかを思い知った。ジャワハーラル・ネルーの政権獲得を見るにつけ、そこに社会主義を目ざし、ガンジーの哲学を現実の事態に適用した生きた成果を、私はみとめたのである。
植民地主義に対する黄金海岸のたたかいは、いまはじまったことではない。一八六八年に組織された連合〔ファンテ連合] は、 一部の族長が、近縁部族であるアシャンティ人に対してだけではなく、海外からの政治的な侵略に対して自分らをまもるために団結してつくったものである。黄金海岸へのイギリスの支配は、イギリスが交易権をえた一八四四年の条約以後、しだいに強化されていたのだ。