原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[6]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[6]
エンクルマ大統領
「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [6] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'
◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。
「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
アクライブニングニュースの標語
「私たちは奴隷として安住するよりもは、危険をともなう自治を選ぶ」
この言葉はまさしく、当時の民衆が奴隷という不幸といかに直面していたか、自由や権利のない状態に追い詰められていたかを示しているように思います。
エンクルマの党で発刊したこの新聞は多くの評判を得て、貴重な活動の一つとなりました。
当時、この新聞に対する要求は非常に大きく、小さな機械で印刷できる少部数を、群衆はむさぼるように待ち構え手に入れたそうです。
その取引が新聞の値段が高騰し、しまいには一部が6ペンスという、高値で売られることもありました。
字の読めない人は仲間を作って、字の読める人に記事をはじめから終わりまで読んでもらいこともあったそうです。弱者にも党の理念は浸透していきました。
売って得られた金の全部が備品の購入と経費にあてられ、利益はほとんどありませんでした。
エンクルマは広告はすべて断りました。なぜなら、広告主の方針で新聞の内容が左右されるからだそうです。アクライブニングニュースの発行が軌道にのる一方で、私は統一黄金海岸会議の総書記を辞めさせられたことから、国内は緊張状態となりました。
1949年休暇を利用して、エンクルマはフランス領象牙海岸と仏領ギニアに行ったりもした。
エンクルマは西アフリカの独立にとどまらず、汎アフリカ独立主義という立場から、西アフリカの団結、民族自治を目標として狭い視野で物事を見ていなかったと言えます。
「事実を知りたいなら、アクライブニングニュースを読め」というのが国内の通り言葉となりました。
◆誹謗事件により賠償請求
然しながら不幸なことに、あまりに無謀に政治活動をやりすぎたため、間もなく私は誹謗事件にまきこまれ、一万ポンドに達する賠償を請求されました。
請求書は全部役人で、警視総監も入っていました。
「然し私は心配ありませんでした。没収されるような財産は無かったからです。」
彼の当時の所持品は、わずか背広二枚、下着一そろい、靴一足だったので、差し押さえられるものは何もなかったそうです。
民衆の大部分がこの事件では私を心から同情し、私を助けに来てくれて、即座の支払いを命じた警視総監と他の数名に払うお金を集めてくれました。
そののち、私はガーナの青年たちを集まり「青年組織委員会」の責任者的な立場で活動を始めていた。それまでの統一黄金海岸会議の綱領 <なるべく早いうちに自治を> という保守的な考えとは、まったく対立していた。両者は意見の食い違いから衝突がおきていました。
このような不愉快な衝突の中彼は故郷のエンジマへ小旅行したり、故郷の平和な環境で心の落ち着きを取り戻すこともありました。
またアクラで、ヨーロッパ人とアフリカ人がぎっしりつまったホールで集会を開き、「植民時人民の自由」という題で二時間近くも話をしました。
この会は大成功に終わり、二百ポンドを青年組織委員会の資金が得られました。
◆怒涛のような歓呼の中で。エンクルマの党が誕生する

<「わが祖国への自伝」より引用 P102>
「6月12日日曜日に、私は約6000人の群衆をまえに、「会議人民党」の成立を発表した。アクラにおける未曾有の大集会で、雨季の中ごろだったが、太陽が明るく照っている日で、この日は偉大な日であった。興奮した群衆の歓呼に迎えられて、壇に立ったときに、私は胸がいっぱいになった。」
演説の中で、黄金海岸にもどってからの政治闘争の全体----ガーナ初等学校と専門学校の創設、アクライブニングニュースの継続、青年組織委員会の増強などなど。
そして現在おきている熱烈勤勉な教信者が自治政府を樹立する動きをおこなっていることを報じました。
黄金海岸の<即時の自治>を訴えたエンクルマの声に、群衆は狂気のように歓呼しました。
いつまでもこの苦境に耐えることはできない。
暫定的な方法よりも、即時の自治こそがガーナが待望する政治でした。
この国<黄金海岸>は、われわれの国であって、われわれは搾取と抑圧のもとに奴隷として生きていくことをこれ以上欲しないこと、この国を発展させ、今日の文明と恵みと快適を我が国の民衆に味わえるのは、自治政治の下においてであることを話した。
・合法的な煽動
・新聞、政治教育運動による積極行動
・ストライキ、ボイコット、非暴力
「時はきたのだ!」
「帝国主義者の不断の搾取と独立から、我が国を救うために、断固とした行動を起こさなければならない時が。
群衆の狂気のような歓呼はどれほどのことだったのでしょうか。
彼はNYというアメリカ留学を経験し、西洋文明とアフリカの間にある格差を十分しっていたからこそ、暫定自治ではなく即時の改革によりガーナが発展することを願っていたのでした。
この言葉も印象的です↓
「あらゆる政治闘争には、決定的な瞬間がある。それを見分けることは困難だが、それを失うことは致命である。一切をその瞬間にかけなければならない。その時には平凡な人間から無限の力がほとばしり出るのだ。」
「私はここにとどまって、沈黙してよいか」
「ノー、ノー、話せ!」
「口を開いて話せ」
ぎっしりと詰まった広場から、エンクルマに対して熱烈な待望の声が反ってきました。
「何があろうとも、民衆の完全な自治が得られると、この瞬間に私はかたく信じた。」
タイム誌の表紙にのるエンクルマ
◆会議人民党の発足
続いて彼は、様々な独立運動を支えた組織や仲間たち、神と人道の名において、「会議人民党」の誕生と党が合法政党として、この国の族長と民衆のために完全な自治を獲得するまで、この日以後、「我々の愛するガーナの解放のために戦いを起こす」ことを宣言しました。
怒涛のような歓呼のあと沈黙が訪れた
もっとも感動的な瞬間
私たちは未来を自らの手で戦いとることを、決意したのだった。決意のほかにいささかも後悔も疑念も見ることはできなかった。
エンクルマと手を組んで政治を実現することを望む人が続々と集まりました。
「辞職して我々を指導せよ。そして腕を組んで戦いをやり抜こう!」
大衆から受けた圧倒的な支持が私を行動へとうながしました。
会議人民党を結成し、政治制度を導入することによって、この国の議会民主主義の礎石が横たえられたのです。熱狂的な運動が全国いたるところで行われ、青年たちの疲れを知らない熱心さと大衆の自発的な協力により、村々に粗末な木の竿の上に「赤、白、緑」の党の旗が翻るようになりました。








