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2025年6月 1日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[6]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[6]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [6] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
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アクライブニングニュースの標語
「私たちは奴隷として安住するよりもは、危険をともなう自治を選ぶ」

この言葉はまさしく、当時の民衆が奴隷という不幸といかに直面していたか、自由や権利のない状態に追い詰められていたかを示しているように思います。

エンクルマの党で発刊したこの新聞は多くの評判を得て、貴重な活動の一つとなりました。

当時、この新聞に対する要求は非常に大きく、小さな機械で印刷できる少部数を、群衆はむさぼるように待ち構え手に入れたそうです。

その取引が新聞の値段が高騰し、しまいには一部が6ペンスという、高値で売られることもありました。
字の読めない人は仲間を作って、字の読める人に記事をはじめから終わりまで読んでもらいこともあったそうです。弱者にも党の理念は浸透していきました。

売って得られた金の全部が備品の購入と経費にあてられ、利益はほとんどありませんでした。

エンクルマは広告はすべて断りました。なぜなら、広告主の方針で新聞の内容が左右されるからだそうです。アクライブニングニュースの発行が軌道にのる一方で、私は統一黄金海岸会議の総書記を辞めさせられたことから、国内は緊張状態となりました。

1949年休暇を利用して、エンクルマはフランス領象牙海岸と仏領ギニアに行ったりもした。
エンクルマは西アフリカの独立にとどまらず、汎アフリカ独立主義という立場から、西アフリカの団結、民族自治を目標として狭い視野で物事を見ていなかったと言えます。

「事実を知りたいなら、アクライブニングニュースを読め」というのが国内の通り言葉となりました。

◆誹謗事件により賠償請求

然しながら不幸なことに、あまりに無謀に政治活動をやりすぎたため、間もなく私は誹謗事件にまきこまれ、一万ポンドに達する賠償を請求されました。
請求書は全部役人で、警視総監も入っていました。

「然し私は心配ありませんでした。没収されるような財産は無かったからです。」

彼の当時の所持品は、わずか背広二枚、下着一そろい、靴一足だったので、差し押さえられるものは何もなかったそうです。

民衆の大部分がこの事件では私を心から同情し、私を助けに来てくれて、即座の支払いを命じた警視総監と他の数名に払うお金を集めてくれました。

そののち、私はガーナの青年たちを集まり「青年組織委員会」の責任者的な立場で活動を始めていた。それまでの統一黄金海岸会議の綱領 <なるべく早いうちに自治を> という保守的な考えとは、まったく対立していた。両者は意見の食い違いから衝突がおきていました。

このような不愉快な衝突の中彼は故郷のエンジマへ小旅行したり、故郷の平和な環境で心の落ち着きを取り戻すこともありました。

またアクラで、ヨーロッパ人とアフリカ人がぎっしりつまったホールで集会を開き、「植民時人民の自由」という題で二時間近くも話をしました。
この会は大成功に終わり、二百ポンドを青年組織委員会の資金が得られました。

◆怒涛のような歓呼の中で。エンクルマの党が誕生する

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<「わが祖国への自伝」より引用 P102>
「6月12日日曜日に、私は約6000人の群衆をまえに、「会議人民党」の成立を発表した。アクラにおける未曾有の大集会で、雨季の中ごろだったが、太陽が明るく照っている日で、この日は偉大な日であった。興奮した群衆の歓呼に迎えられて、壇に立ったときに、私は胸がいっぱいになった。」

演説の中で、黄金海岸にもどってからの政治闘争の全体----ガーナ初等学校と専門学校の創設、アクライブニングニュースの継続、青年組織委員会の増強などなど。
そして現在おきている熱烈勤勉な教信者が自治政府を樹立する動きをおこなっていることを報じました。

黄金海岸の<即時の自治>を訴えたエンクルマの声に、群衆は狂気のように歓呼しました。
いつまでもこの苦境に耐えることはできない。
暫定的な方法よりも、即時の自治こそがガーナが待望する政治でした。


この国<黄金海岸>は、われわれの国であって、われわれは搾取と抑圧のもとに奴隷として生きていくことをこれ以上欲しないこと、この国を発展させ、今日の文明と恵みと快適を我が国の民衆に味わえるのは、自治政治の下においてであることを話した。

・合法的な煽動
・新聞、政治教育運動による積極行動
・ストライキ、ボイコット、非暴力

「時はきたのだ!」
「帝国主義者の不断の搾取と独立から、我が国を救うために、断固とした行動を起こさなければならない時が。

群衆の狂気のような歓呼はどれほどのことだったのでしょうか。

彼はNYというアメリカ留学を経験し、西洋文明とアフリカの間にある格差を十分しっていたからこそ、暫定自治ではなく即時の改革によりガーナが発展することを願っていたのでした。

この言葉も印象的です↓

「あらゆる政治闘争には、決定的な瞬間がある。それを見分けることは困難だが、それを失うことは致命である。一切をその瞬間にかけなければならない。その時には平凡な人間から無限の力がほとばしり出るのだ。」

「私はここにとどまって、沈黙してよいか」
「ノー、ノー、話せ!」
「口を開いて話せ」

ぎっしりと詰まった広場から、エンクルマに対して熱烈な待望の声が反ってきました。
「何があろうとも、民衆の完全な自治が得られると、この瞬間に私はかたく信じた。」


Kwame Nkrumah on Time magazine cover- 9 February 1953
タイム誌の表紙にのるエンクルマ
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◆会議人民党の発足

続いて彼は、様々な独立運動を支えた組織や仲間たち、神と人道の名において、「会議人民党」の誕生と党が合法政党として、この国の族長と民衆のために完全な自治を獲得するまで、この日以後、「我々の愛するガーナの解放のために戦いを起こす」ことを宣言しました。

怒涛のような歓呼のあと沈黙が訪れた
もっとも感動的な瞬間

私たちは未来を自らの手で戦いとることを、決意したのだった。決意のほかにいささかも後悔も疑念も見ることはできなかった。

エンクルマと手を組んで政治を実現することを望む人が続々と集まりました。

「辞職して我々を指導せよ。そして腕を組んで戦いをやり抜こう!」
大衆から受けた圧倒的な支持が私を行動へとうながしました。

会議人民党を結成し、政治制度を導入することによって、この国の議会民主主義の礎石が横たえられたのです。熱狂的な運動が全国いたるところで行われ、青年たちの疲れを知らない熱心さと大衆の自発的な協力により、村々に粗末な木の竿の上に「赤、白、緑」の党の旗が翻るようになりました。








2025年2月15日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[4]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[4]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [4] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
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◆ロンドンへ。そして黄金海岸へ帰国する。

十数年住み慣れたアメリカNYをいよいよ離れ、ロンドンに向かう日が来ました。彼がロンドンへいった目的は、法律を勉強する一方、博士号をのための論文を完成させるためでした。

このためロンドンにつくと、すぐにグレイ法学協会に入会し、ロンドン経済大学の聴講生にもなりました。それ以外にも論理実証哲学の研究も学問の対象としていました。
然し数週間で、私はロンドンの政治活動に興味をもつようになりました。

◆あらゆる政治活動に参加する

私はアメリカにいたときのように、あらゆる政治活動や政党に顔を出しました。
最初に行ったのは、『西アフリカ学生同盟』というグループに入って活動し、のちにはそこの副会長になりました。
この会は西アフリカの状態の改善を植民省に嘆願することを煽動するなど学生の経済支援も行うなど、有力な団体となりました。

ロンドンについて一か月のちに、マンチェスターの「汎アフリカ会議」の準備に謀殺されました。
西インドの新聞記者ジョージ・バドモアと私は共同秘書となり、様々な活動をしました。
他にもアフリカ出身のアメリカ学者であるデュポイス博士と英領ギニアの医師ピーター・ミリアード博士の共同議長のもとで開かれました。
会議は大変な成功で、全世界から200名を超える代表が出席しました。
各植民地の状態についての報告があり、そして、資本家の意見は否決され、非暴力的積極行動の戦術によるアフリカ的社会主義という思想が満場一致で採決されました。

帝国主義に対するいくつかの宣言が、この会で採決されたが、主には、植民地民衆の自由への決議を擁護し、資本の独占、真の民主主義は経済上の民主主義の上に成立することを明らかにし、世界を帝国主義の魔物から救うために、連帯責任をもつように訴えました。

第五回汎アフリカ会議は、これまでの第四回までの時とは、だいぶ様相が違っていて、有色人種学生や農民、労働者が多数を占めるようになっていました。

これがエンクルマの政治的活動のスタートともいえるのではないでしょうか。歴史を変える歯車がいよいよ廻り始めたのです。
また、エンクルマに影響を与えた西インド・ジャマイカの黒人運動指導者マーカス・ガーウェイは<アフリカへ帰れ>の運動によって、1920年代のアメリカの黒人たちを強く鼓舞しました。

後にエジプトのナセルと対話するエンクルマ
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◆貧しい生活と差別の中で

ロンドンでもまた、クワメは人種差別の苦い経験を味わわなくてはなりませんでした。
どこへいっても下宿を断れたようで、最後にみつけたのは、イースト・エンドにあるみすぼらしい一軒の家の貸間でした。
いつもキャムデン街か、トッテンハムコート街の大衆食堂に入って、茶を一杯のみ、懐の許すときは、ぶどうぱんかロールパンを一つ買って、いつもここに集まる様々な人々に政治について
何時間も議論していました。食堂の主人は、よほどのよい人物だったと見えて、出て行けといわれたことは、全然ありませんでした。

西アフリカの民族事務局を支持していた学生は、討論の為に定期的に集まっていた。

サークルのメンバーは、アフリカ大陸のどこへ行っても革命的な活動ができるように、自分を鍛え始めた。
彼らは事務局の特別奉仕団のような存在になり、ほんの計画と活動を推進し、講座や討論会を開いた。

◆黄金海岸へ帰国する

さて故国ガーナでは日を追ってアフリカ人の自治を求める運動が活発化していました。

特にゴールドコーストから多くの青年たちが海外、とくにイギリスで勉強し、権利やヒューマニズムといった思想を取り入れるようになっていたからです。

。第二次世界大戦のに従軍した青年たちが、インド、パキスタン、セイロン、ビルマなど世界各地で植民地と権利、独立のために戦う世界をみてきたこもあり、原住民からそうした独立を求める意欲はますます高まりました。

 『アフリカはエンクルマの夢の恋人』と、かつて友だちがうたった故国ゴールド・コースト。

指導力と強い知識を持ち合わせたリーダーが待望され、エンクルマはそのような期待を背負ったのでした。

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エンクルマが創設したクワメ・エンクルマ科学技術大学
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◆1947年11月 帰国と母親との再会

12年も分かれていたの母親と再び顔を合わせて、お互いにある種のショックを受けました。

母の目はかすんでしまい、白髪で、昔の美しさを失っていたのでした。

そして母親の姿が小さく見え、体が弱ってきたためであろう。。

しばらく私の顔を見つめて、放蕩息子だとわかると、母親の感情は堰を切って溢れ出しました。

母が私を引き寄せて抱きしめたときに、不快すすり泣きで泣いているのが分かりました。

そして、急にお互い笑い出したかと思うと、12年の間にそれぞれおきたことを話しました。

また将来の私の政治的な考えのことを母親に打ち明けました。

当時の黄金海岸での政治運動組織は容易ではありません。

苦しい旅をしなければならず、道路は凸凹だらけでした。頑丈な自動車を持っていれば少しは楽になったが、私に与えられた自動車は旅の終わりまでつかれるものではなかったのです。

そのころの私は全財産、洋服2まい、靴二足、下着数枚、これらは小さなスーツケースに楽に入る。
当時のかれのもちものはこれだけ。
彼は広い国をすみずみまで歩き回って、集会をひらき、人々とであい、何百回も講演をしました。






2025年1月 3日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[3]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[3]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [3] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
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クワメはアメリカのリンカーン大学に入学。
ニューヨークでは苦学の日々。それでも彼は学業優秀で主席で大学を卒業します。

◆アメリカ留学の夢にむけて

クワメはアメリカ留学を実現するために貯めたお金をすべて貯金していたそうです。

アメリカ行きの計画を母親に話すと、母親は「神様と先祖様がお前を守ってくださいますように」と言いました。息子がアフリカを離れて、アメリカにいくことを悲痛な思いで受け止めたことでしょう。息子の決心は揺るぎないものであることは知っていました。
12年の長い間親子は離れ離れとなりました。

クワメはまずアキシムからラゴスへ密航しました。
そのあと彼を乗せた船は、まずイギリスのロンドンに着きました。
ここでアメリカ行きのビザ(旅行証)を貰い、それからニューヨーク行きの船がでるリバプールヘ向かいました。
一九三五年十月、クワメはようやくニューヨークへ到着することが出来ました。
アメリカでクワメは、フィラデルフィアの西にあるリンカーン大学へ入ることになりました。

船員に交じって中にはいり、連中の食事を食べ、ボイラー室の窮屈さと暑さに辛抱しながら航海に耐える日々でした。彼は、船酔いに耐え、服はボロボロ、ひげはぼうぼうでした。

ラゴスでは着替えて、ズボンとシャツを買います。
リンカーン大学への入学申し込みは数か月前に出してありました。

アクラのエンクルマ記念公園
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◆イギリスのリバプールで旅券を買う

まずイギリスに渡り、アメリカの旅券を手に入れないといけない。
クワメは、親族のお陰で100ポンド持っていたのと、親族のエンサコムの族長が50ポンド与えたので、それでリバプールまでの旅券を買いました。

リバプールについて一週間滞在したのち、クワメはアメリカの旅券をもらいにロンドンへ行きました。
先の見通しは立たず、自分の力に及ばないことをしているように覚え、故郷に帰ろうかと考えもしました。右も左も分からない異国の地で、彼も途方に暮れる気持ちになったことでしょう。

丁度その時、新聞売りの少年が新聞の束をトラックから降ろしていました。みると、
「ムッソリーニ、エチオピア侵攻」という張り紙を見つけました。
その一瞬、ロンドンの全部が自分に宣戦布告をしているように感じられたのでした。

クワメは植民地主義を倒すために働く日がくることを祈りました。
その目的を達成するためなら、私は地獄へでも行こう、と決心をしたそうです。

ニューヨークについたのは初秋の10月の終わりごろで、故郷の平和と静けさから抜け出した私は
巨大な建物と、尽きることのない群衆に押し流されていました。
一種のおののきと、幸せで明朗な雰囲気がありました。


1954年に生まれたリンカーン大学は、合衆国内の黒人に高等教育を与えて、黒人社会に有用な指導者を育てることを目的とした最初の教育機関です。
この大学を計画し、創設したのは、長老派の宣教師でした。

アフリカからの旅がとても長かったので、リンカーン大学についたときは、クワメが用意してきたわずかな金は、殆ど無くなっていました。
それでも学校だけは卒業しようと決心していたので、アルバイトで働きながら学校へ通いました。
夏休みには船員になり船でも働きました。船の仕事が一番、お金が取れるからでした。
しばらくすると毎日曜、ある黒人教会で説教師の仕事をすることもできました。

カラフルなカカオの実
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◆12年の苦しい留学生活、その後フリーメーソンの会員になる

リンカーン大学へ着いたときには私の所持金は40ドル、中学校の免状、リンカーン大学への紹介状
次の試験でよければ、リンカーン大学で第一学年の編入を認めました。

試験を受けて入学資格を獲得します。
私はいつも主席と自席の学生でしたので、リンカーン大学ではずっと奨学金をもらっていました。

奨学生の為に学内では2つのアルバイトがあり、一つは図書館の助手、一つは食堂の給仕でした。
私はそれ以外のアルバイトを見つけて、学生のレポートを一回一ドルで引き受けたりしました。

弁論大会で、私は2位になり、金のメダルをもらうことができた。

また、クワメはアメリカにいる間にフリーメーソンの会員にもなったそうです。
彼は、世界を政治的、経済的に支配する秘密結社の存在にも気づき、そうした組織の力も知るようになったのでした。

1942年、リンカーン大学を主席で卒業し、神学士の号を得ました。
慣例に従い、その年の卒業の演説もさせられました。

クワメはよく本に親しみ、主に政治や哲学書、主にドイツの哲学者へーゲルや、同じくドイツの政治家マッチュイ、ロシアのレーニンの本を好んで読んでいたようです。
だが一番強い影響をうけたのは、マーカス・ガーヴェイの『哲学と評論』でした。ガーヴェイは、アフリカ人の自由を叫んで戦った先駆者の一人でした。

◆自由の国アメリカに存在する差別

学校を出ていたにもかかわらず、クワメの生活は貧乏生活であり、常に働くことを考えなければなりませんでした。下宿代を節約するために、NYのハーレムからブルックリンまで、一晩中運転する地下鉄に乗って過ごすこともあったそうです。
クワメは友達とフィラディルフィアの駅の待合室で、夜を過ごすこともありましたが、警官は二人を公園に寝るように追い出したそうです。

自由の国アメリカでも、黒人はまだまだ人種差別の壁は厚く、生活に困窮することがよくありました。
レストランで水を下さい、とお願いすると「出ていけ。黒人のお前は、そとのたん壺でたくさんだ!」
と怒鳴って追いやられました。


◆生きていくためにNYで様々な仕事をする

エンクルマは在学中に研究費を稼ぐために、造船所で働き、深夜の12時から翌朝8時まで働きました。過酷な労働と寒さの中で肺炎になり、ガタガタ震えて救急車に運ばれて、酸素室に入れられたこともありました。
このころのエンクルマは仕事と研究で24時間ぶっとおし頑張り続けたため、体を壊しかかったのでした。彼は差別と貧困のなかで何ども故郷ガーナに帰ることを考えたのでした。

リンカーン大学で夏休みを迎えたときに、学業終了後は学生の大学構内にとどまることが禁止されていたので、かれは途方にくれました。
NYに行き、ハーレムに住んでいたアフリカ人の所で寝泊まりをしました。彼も自分に劣らず貧乏人で、仕事の探す相談をしたのでした。

二人が見つけた仕事は魚の市場で卸値で買った魚を街角で売る仕事でした。エンクルマは魚アレルギーがあり、全身にかゆい吹き出物がでました。
然しながらこの仕事も続かず、とうとう寝る場所も失う羽目になりました。

これからどおしたものかと考えてぶらぶらしていると、リンカーン大学時代の友人が部屋を貸してくれて、仕事が見つかるまで置いておいてくれたりしました。

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石鹸工場にしごとを見つけたのもこのころでした。

バラの花の香りを毎日身に着けて仕事場から帰れると想像していたが、外れていました。

この工場での仕事は、、これまでにないほど不潔で、不快なものでした。
動物の腐った内臓や脂肪のかたまりを、トラックから庭へ放り出される。
この悪臭をはなつ、不潔極まりない塊を、熊手で押し車にのせ、処理工場へ次から次へ運ぶ仕事は不快を極めたのでした。

日がたつにつれこの仕事になれるばかりか、吐き気を抑えるのに苦労したのでした。

1939年第二次世界大戦がはじまるまで、私は船乗りの仕事を続けました。
初めてこの仕事に就いたとき、船会社の職員がぶっきらぼうに「ウェイトと給仕の両方の仕事ができますか?」
私は不採用がこわくて、「出来ます」と答えて採用してもらい、船に乗り込むことになりました。

食堂の給仕らしいスマートな服をきせられ、料理を運ぶ仕事をしました。

次の更改のときには、食堂の規則も、料理の名前も覚えたので、船員食堂の給仕に出世しました。
この仕事はチップもよく、一日三食の食事がもらえ、しかもスマートな制服も帽子ももらえて気に入っていたのでした。

戦争が勃発して、船乗り生活が終わってしまい、クワメは心から残念だと思いました。

港町の街路をあるきながら、誰も自分のことを知らず、いつ殺されても心配されることもない身でした。アメリカの空の下で野宿するよりは、故郷のアフリカの星の下で、寝る方が、蚊の銃撃を受けるにしてもはるかに幸福であることを思いつつ。

エンクルマは、黒人のいろいろな宗教の集まりや信仰復活運動の集会を次々に尋ねまわったそうです。その中で特別に興味をひかれたのは、精霊神父の会のひきいる運動でした。この会にはいると素晴らしい特典があり、おいしいチキン料理を半ドルで食べることができたり、一ドルの散髪を数セントにしてもらったりと、貧乏学生には魅力的な会でした。

フィラディルフィアにいるときに、黒人を宗教的、社会的に経済的見地から調べる機会を与えられました。フィラディルフィアに住む600の黒人家族の調査を通してアメリカ合衆国、特に何部の激しい人種差別の実態を知り、黒人差別問題に目をむけるきっかけとなりました。

彼自身も黒人差別のひどさは身にしみて分かっており、カラカラにのどが渇いても一杯たりとも水を与えず、「たんつぼでも飲め!」といわれて追いやられたこともありました。




2024年9月 6日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[1]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[1]  エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [1] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著

今月より、本編を含む数回に分けてガーナ初代大統領の自伝をご紹介させて頂きます。

エンクルマは、独立運動を指導したエンクルマは非暴力不服従を掲げて、イギリスと粘り強く交渉し、57年に独立を勝ちとりました。彼は「ガーナ独立運動の父」と呼ばれています。

彼の生涯をみて多分多くの人が「天才的な戦略家」であるという印象をもつのではないでしょうか。

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この本を読み終わり、思わず

「この自伝は絶対、映画化してほしい!」

彼の情熱と勇気と英知に満ちていて感動の連続でした。

まさしく黄金海岸(ゴールドコースト)に解放の光をもたらす使命を持って、生まれてきた方だったのでしょう。

アメリカのリンカーン大学留学時代にエンクルマは独立の新星として同級生にも、政治的に大変期待され、詩を贈られていたそうです。寸暇を惜しんでよくアルバイトに励み、大変働き者でした。

そんな彼が数十年後に達成したガーナ独立。その後アフリカの年には、17か国が続いて独立を果たしたといわれています。

3月5日ガーナ独立の日、数多(あまた)の群衆が首都アクラの広場に集まったそうです。

歓声とどよめきの中、夜中の0時にイギリスの国旗が降ろされ、ガーナの三色旗に入れ替わりました。

どんな気持ちでガーナの人々はこの日を待ち望んでいたことでしょう。

多くの偉業を果たしたエンクルマの政治経済はアフリカの模範となり、世界中が注目するようになりました。


黄金海岸とアシャンティ王国

ちなみに「黄金海岸(ゴールドコースト)」という言葉を聞いて、どんな所か想像できますでしょうか。

ここは現在のガーナのあるアフリカ西岸のギニア地方にあり、かつては「アシャンティ王国」という黒人国家が栄えていましたが15世紀からポルトガルのアフリカ植民地支配がはじまり、盛んに黒人奴隷が行われていたのです。

アシャンティ王国は、初代のオセイ・トゥトゥが小王国を組織・統一したのち首都を現在のクマシに創設しました。
アシャンティ王朝の権力のシンボルとして、天から授かった黄金のスツールに座る者が最高権力を得たという伝説があります。
欧州でのパワーがオランダからイギリスに移ったように、ガーナにおいてもイギリスの支配下へ移ります。
19世紀にはガーナはイギリス植民地となります。そののちイギリスとの戦争に敗れた最後の若き王プレンペーはセーシェルに流されたといわれています。

ポルトガルによるアフリカ黒人奴隷貿易の記憶を忘れないための世界遺産「エルミナ要塞」は現在のガーナにあります。こんなひどいことをした、かつてのキリスト教徒たち唾棄すべき人間たちではないでしょうか!

ガーナのストリート
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「わが祖国への自伝」(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著

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この本の著書の前書き抜粋ですが、とても良い内容なのでぜひご一読ください。⇒※A
前書きを読んだだけで当時の彼の独立に対する情熱や戦略が伝わってきてとても感動致します。

エチオピアのアディスアベバに中国の支援で建設された現在のアフリカ連合本部前には金色のエンクルマの像が配置されているみたいです。
いつか私も西アフリカのガーナを訪ずれてみたいです。

こちらはガーナ首都アクラにある、エンクルマ記念公園です。

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◆前書き抜粋 ※A
「インドのガンジーの非暴力の影響を受ける」

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アメリカでの勉学の終りのころに、リンカーン大学をふくむいくつかの黒人大学から講師になるようす
すめられた。それは生活のためのたたかいの一つの終点を、ひそかに私が望んでいた環境での苦労のない快適な生活を、約束してはいた。しかし、すでに十年以上もまえから燃えあがり、はげしく燃えつづけている民族主義の炎を、そのために心から消すことはできなかった。

黄金海岸の独立こそは私の目標だったのである。黄金海岸は植民地であり、植民地主義とは、外国が経済上の利益を追求することを最高の目的として他の領土を政治的にしばりつける政策である、と私はいつもみなしていた。植民地制度が多くの領土で騒擾や政治危機をまねくのは当然である。 植民地支配から、できることなら脱したいと願わない民衆はいないからである。

当時、私は革命家と彼らのやり方を熱心に研究した。とくに私の興味をひいたのは、ハンニバル、ク
ロムウェル、ナポレオン、レーニン、マッツィーニ、ガンジー、ムッソリーニ、ヒットラーである。私
は、摂取する価値のある多くのこと、のちに帝国主義に対する闘争で役立った多くの思想を、発見した。

(ガーナ料理)
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ガンジーの非暴力の哲学が役に立つとは、最初私にはとうてい思えなかった。それはまことにひ弱く
て、成功の見こみはないと思われた。植民地問題の解決は武装反乱によってのみ可能だ、と当時の私は考えていたのだ。武器も弾薬もなしに革命に成功することがどうしてできよう、と私は自問した。
しかしガンジーの政策を長いあいだしらべ、それが強い政治組織に支持された場合にもつ効果を目撃して、この非暴力哲学が、いかに植民地問題の解決に役立つかを思い知った。ジャワハーラル・ネルーの政権獲得を見るにつけ、そこに社会主義を目ざし、ガンジーの哲学を現実の事態に適用した生きた成果を、私はみとめたのである。

植民地主義に対する黄金海岸のたたかいは、いまはじまったことではない。一八六八年に組織された連合〔ファンテ連合] は、 一部の族長が、近縁部族であるアシャンティ人に対してだけではなく、海外からの政治的な侵略に対して自分らをまもるために団結してつくったものである。黄金海岸へのイギリスの支配は、イギリスが交易権をえた一八四四年の条約以後、しだいに強化されていたのだ。