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2022年8月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[6]モロッコの観光地

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原初の精神 モロッコ [6]
モロッコの観光都市

アラビアとヨーロッパの融合

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco[6] 

モロッコはアラビア世界とヨーロッパ世界が融合したエキゾチックな風景を楽しむことができます。国内には、旧市街地や古代遺跡など多くの世界遺産あり多くの観光客がおとづれます。またアフリカ最大級のショッピングモールやスークの買い物でアラビアの芸術やファッション、雑貨を楽しむことができます。

食文化や歴史や風土、イスラム建築、イスラム文化などなど、モロッコの国の魅力に取りつかれた方も多いのではないでしょうか。

アラビアやイスラム教は日本人には馴染みが薄いかもしれませんが、実際は芸術や歴史にはとても神秘的な美しさや奥ゆかしさがありますので、この機会にモロッコの国に親しんでいただければと思います。
今回の記事は随時加筆、更新させていただく予定です。

〇モロッコの観光都市〇
フェズ
メクネス
ムーレイイドリース
シャウエン
マラケシュ
カサブランカ
ワルザザード砂漠の街
ラバト


次回は「原初の精神 ウガンダ時事ニュース」をお送りします。

フェズ
フェズ・エル・バリ(通称フェズ)は「世界一の迷路の町」であり、世界中の人々を魅了し続けている街です。アフリカ大陸のモロッコ王国で、エキゾチックな街並みが広がるフェズは、観光で人気の都市。中でも、世界遺産に登録されている巨大な迷路のような旧市街が見どころです。現在では、敬虔やイスラム教徒が暮らす迷路のようなメディナ(旧市街)には、モロッコ特有のバザールが広がっており、伝統的なスパイスや、ムスリムの習慣に基づいて屠殺されたハラルの食材等が街中で売られ、イスラムの文化を存分に楽しむことができます。フェズには、古くから伝わる様々なモロッコ文化が今も息づいており、観光の見どころの一つとなっているのが、伝統工芸である皮なめしの加工場「タンネリ」で巨大な革の染色の工場の姿を見ることができるそうです。
なんといってもイスラム建築の素晴らしさを今に伝えるマドラサ(学校)、モスクや王宮等があり、豪華絢爛な建築物も見どころです。旧市街では、100以上の手工業が今も営まれており、職人たちが一つ一つ手作りした多種多様な工芸品がバザールで売られています。フェズ観光のおすすめスポットは「ブー・ジュルード門」(Bab Bou Jeloud)です。イスラム様式で建てられた壮麗な幾何学模様の門が勇名だそうです。
フェズ川沿いにはなめし皮職人街であるシュアラが広がり、シェッラティーン通りには民族衣装を扱う店が並んでいます。また有名なカラウィーン・モスクは、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっているモスクです。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが859年には宗教教育を始め、現存する世界最古の大学とも言われます。
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ムーレイ・イドリス 
メクネスから北へ22キロ、ザルフォーン山脈山沿いに白い家が立ち並ぶ。敬虔なイスラム教の聖者の街が、古都ムーレイイドリスです。モロッコ北部の町。8世紀末、アッバース朝に追われたムーレイ=イドリス1世が同国初のイスラム王朝であるイドリス朝を開いた地として知られます。丘の上のホルムとよばれるイスラム教徒の聖域には、ムーレイ=イドリス1世の霊廟がある。毎夏の聖者祭には多くの巡礼者が訪れます。
彼の霊廟には非イスラム教徒は入ることができず神秘的な雰囲気が漂います。
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シャウエン
シャフシャウエンまたはシャウエン ( アラビア語: 4A4'HF/'D4'HF 、スペイン語: Xauen、英語: Chefchaouen)はモロッコ北部の都市。青色の建物群で有名です。
シャウエンはタンジェや、スペインの飛地であるセウタに近く、スペインを中心とするヨーロッパからの観光客に人気がありあります。この都市の名前は、町から見える2つの山の頂きから来ており、それらはヤギの2つの角のように見えます。約200軒のホテルが、夏やクリスマスなどにヨーロッパから訪れる観光客を迎えます。シャウエンの一角には青く色付けられた家および建物があります。
シャウエンには、ウールの衣服、毛織物など、モロッコの他の場所で手に入れることのできない現地の手工芸品が数多く売られ、買い物先として人気です。当地原産のヤギのチーズも名物であります。
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カサブランカ
カサブランカは、大西洋に面したモロッコ最大の都市、モロッコの商業・金融の中心地です。
ダウンタウンにはムーア様式と欧州のアールデコ様式が混ざったモレスク建築があり、フランス領時代の名残があります。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの主演映画『カサブランカ』(1942年アメリカ)でも有名です。北部は大西洋に面した湾岸都市で、発展を続けています。高いビルが建ち並ぶ大都会でありながら、旧市街「メディナ」には昔ながらの暮らしが息づき、食料や金銀、香辛料などが並ぶマーケット「スーク」があって散策すると楽しいです。

一部が海に突き出た 1993 年完成の巨大なハッサン 2 世モスクには 210 m のミナレット(尖塔)があり、その頂上からはメッカの方向に向けてレーザー光線が発せられるようになっているそうです。

ムハンマド5世国際空港が郊外にあり、ロイヤル・エア・モロッコのハブ空港として機能している。カサブランカ中心部へは鉄道で結ばれている。日本との直行便はないので、ヨーロッパなどの空港で乗継が必要となります。
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ラバト
ラバトはアフリカにあるモロッコ王国の首都。市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)。ラバトとは「駐屯所」の意味です。人口ではモロッコ最大の商業都市カサブランカなどに次ぎ第3位の都市として、また首都としての機能のため、外国公館も存在し来訪者も多いです。
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マラケシュ 
モロッコ第三の都市マラケシュは、雑貨の聖地として有名な街で、王宮やバイーヤ宮殿、サード朝の大廟墓群など観光名所が目白押しです。中でもジャマエルフナ広場やスークは、屋台も出ている必見のスポットが沢山あります。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し「南の真珠」と呼ばれてきました。現在は経済の中心地として栄え、モスク、宮殿、庭園があります。人や建物が密集するメディナ地区は、ベルベル人の帝国時代に張り巡らされた城壁が残る中世都市です。迷路のように入り組んだ路地には活気あふれるスーク(市場)があり、伝統的な布地、陶器、宝飾品が売られています。
生活雑貨から織物やタジン鍋やバブーシュとお土産物も沢山あります。モロッコならではのミントティやクスクスなど独得の料理を味わって下さい。
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ジャマエルフナ広場
ジャマ・エル・フナ広場では、スパイスを求めて買い物に来る地元の人や、観光の合間に休憩する観光客で昼夜を問わずにぎわっています。観光客向けの個性的でかわらしいアラビアンライトや、アラブ風の模様が描かれた食器がたくさん陳列されています。

現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ毎日がお祭りのような楽しい雰囲気の広場です。 屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるそうです。
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メクネス
城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。北部には、聖地ムーレイ・イドリスや古代ローマ遺跡で世界遺産に登録されているヴォルビリスの古代遺跡があります。
なかでもイスマイル王はフランスのルイ14世に傾倒し、メクネスを「モロッコのヴェルサイユ」にすべく大改造を行います。古い建物を取り壊し、イスラム文化とヨーロッパ文化が融合した、イスパノ・モレスク様式と呼ばれる建築物を次々に建造しました。
城壁に囲まれた古都メクネスの入口にあるマンスール門は、精緻(せいち)なモザイクや彫刻が施され、北アフリカでも美しい門の一つとして知られ、王都のエリアへのメインゲートになっています。
馬蹄型のアーチは青と緑のモザイクで彩られ、壁の斜め格子の彫刻が美しい陰影をつくっています。

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ワルザザート
ワルザザートは標高1,160mにあるとても美しい都市です。カスバ街道上にあり、アトラススタジオはワルザザート西部にある世界最大規模の映画スタジオです。サハラ砂漠入り口の町で遠くにはオート・アトラスを望み、日干しレンガの村・ダデス川沿いのカスバ街道で知られています。
1983年に設立されて以来、ワルザザートの映画産業の中心となっています。不朽の名作「アラビアのロレンス」に始まり、人気大作「ハムナプトラ」や「スターウォーズ」など数々の名作が撮影されてきました。実際に映画で使用されたセットがたくさん公開されていています。
マラケシュからワルザザートへの道を地図上で辿ると、ちょうどその間にあるのが、世界遺産アイト・ベン・ハッドゥ。モロッコの隊商交易の中継地として栄え、要塞のように積み立てられた集落が点在しています。
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2022年7月 3日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[5]まとめ

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原初の精神 モロッコ [5]まとめ

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ [5] 総論


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ムハンマド5世 (モロッコ王)
(アラウィー朝モロッコの第26代、28代スルターン、初代国王)がモロッコ で達成した偉業は目を見張るものがある。
兎に角モロッコ のあちこちに彼の名前が残されているからだ。

ムハンマド5世広場
ムハンマド5世霊廟
ムハンマド5世国際空港
ムハンマド5世大学

コイン、切手などに彼の顔が記されているのだから彼は英雄中の英雄なのです。
彼はイスラム教スンナ派でわずか51歳で亡くなり没後はラバトのムハンマド5世廟に眠っている。
この霊廟の荘厳な雰囲気は没後50年以上経ってもモロッコ独立の父であるムハンマド5世がいかに重要な存在であるかが伝わってくる。


1960年はアフリカの年26ヶ国が独立

ナショナリズムとアフリカ覚醒の年
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アフリカの年

アフリカの年(アフリカのとし、英: Year of Africa)は、西暦1960年の有名な呼び方である。シャルル・ド・ゴール大統領の措置によって13カ国の独立が認められたフランスを主に、アフリカ大陸で17カ国が植民地からの独立を達成し、脱植民地化が進んだ。
1960年のアフリカの急激な政治的変化は新たな時代の到来を予感させる年となった。

さらに、アフリカの年となった1960年にアフリカ大陸の独立国は9カ国(人口9500万人)から一気に26カ国(人口1億8000万人)にまで増加したという。
独立を達成した全ての国で汎アフリカ主義が強調されたのである。

しかしながら昨今、モロッコスペイン領スペイン領メリリャの移民大量死の事件がおき、 モロッコの人権団体が公平な調査求める事態になった。欧州への亡命を希望する人々は24日、モロッコ側からメリリャの国境フェンスに突撃し、国境警備隊と衝突。

この衝突で移民少なくとも23人が死亡、警備隊員を含む200人以上が負傷した。背後にはイスラム系テロ集団の影響もあるらしく、今や世界的に人気のある観光地となったモロッコに不穏な影も見られるのである

※次回はモロッコ最終回 モロッコの観光都市とその魅力をお届けします。
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アルガンオイルの実

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<追記>

ロシアウクライナ戦争に見る
マスコミ洗脳の欺瞞性

ウクライナとロシアの戦争にしても、ネオナチ化されたウクライナから人民を解放しているのは、他ならぬロシアのプーチン大統領である。
誤解に晒されながらナチズムの恐怖政治の洗脳から善人を守ったのが彼である。

ロシアのプーチン政権は「ネオナチの脅威」からの解放のためににウクライナに侵攻した。

↓ 動物愛好家のプーチン氏
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ロシアが推し進めた脱ネオナチのプロパガンダは、いずれ世界的に認められ、ウクライナ国民の自由を達成し、ニセ報道と闇の権力は容を消し、平等と公正の時代が訪れることだろう。

プーチンの目的は非ナチ化
ロシア悪玉のレッテルをはる報道は大嘘

ところでロシアの独立系世論調査機関「レバダセンター」が侵攻後の3月末にロシア全土53地域で行った対面調査でプーチン大統領の支持率は83%と言う驚異的な数字をあげているそうだ。

2020年や2021年には60%台の支持率でしたが、侵攻後にむしろ急上昇を記録している。

「ロシアは広大で極寒、不毛の大地である。ここで生き抜く為には集団を作って互いに守り合う必要がある。」 (ウラジミール・プーチン)

ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【上】 - 清義明|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

心理学者が危惧。「悪玉はプーチン」というレッテル貼りによる思考停止 

2022年5月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[4]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [4]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

第4回  近現代  ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立まで

19世紀フランスのモロッコ進出

1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まるモロッコの主権も危機に脅かされ、ヨーロッパ列強の争いに巻き込まれていきます。

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1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、イスーリーの戦いで敗れるなど、ヨーロッパの圧力下、次第に戦争に破れるようになりました。

1912年モロッコは「フェズ条約」により、アラウィー朝はフランスの保護領になります。また鎖国政策の中で唯一外交を許されたタンジェは、23年間国際管理下になりました。フェズ条約により、モロッコの実権はフランスとスペインが握り、アラウィー朝は存在するものの、実態は植民地に他ならなかったのでした。

この時期フランス人L.リヨテが初代総督になります。フランスによるモロッコ統治を完成させた彼は首都をラバトに定めました。

モロッコの女性たち
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ベルベル勅令が発端となったナショナリズム

モロッコのナショナリズムが組織的な政治運動として現れるきっかけとなったのは、フランス保護領下で発せられたのが、悪名高き「ベルベル勅令」です。
これはアラブ人の多く住む都市部と山岳部のベルベル人居住地を区別するものでした。ラバト、カサブランカ、フェス、メクネスなどの重要都市と、ベルベルの山岳地帯を、これら都市部との接触をなるべく遠ざける方法です。

これはアラブ人をシャリーア、ベルベル人を慣習法で裁判を行う分割統治でした。
(いわゆるバラバラ勅令)

ベルベル慣習法は結局フランスの法制度に編入するものであるため、これによりアラブ、ベルベルの双方からなるアイデンティティは崩れることなり、国内から反発を呼ぶものになったのです。

マラケシュのスパイス
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この頃から、イスラム法学者、知識人、エリートの中から反仏運動が盛んになり始め、1933年にはアラール・ファーシー、ムハンマド・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えた。しかしながら彼らは活動中逮捕幽閉され、一時期モロッコの独立運動はリーダー不在の混迷した時期を迎えました。

第二次世界対戦中モロッコはナチスドイツに降伏し共和制が崩れた時期がありましたが、フランスはすぐ奪回します。
また。大戦中にはルーズヴェルトとスルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) が会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めました。

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スルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) とは

フランスから独立を勝ち取ったモロッコの国民的英雄である。アラウィー朝モロッコの第26代,28代スルターン、初代国王。
ラバトのムハンマド5世大学、カサブランカのムハンマド5世国際空港はムハンマド5世にちなんでそれぞれ命名された。一時はスルタンの座を追われ、マダカスカルに亡命しながらも国民の人望を集め、1956年見事にモロッコを独立に導いた建国の父でもある。

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モロッコ王 ムハンマド5世
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第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で独立運動が過熱するなか、第四共和制はナショナリズムを鎮圧することはできませんでした。植民地側は妥協案として、共同主権を提言しましたが、これはモロッコの完全独立を目指す側から拒絶され、ますます火に油を注ぐことになります。

モロッコの独立の達成

ナショナリズムの高揚の最中、フランスに敵視されたムハンマド・ベン・ユースフはマダガスカルに国外追放され傀儡政権となります。このことはモロッコ人の反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至りました。

ラバトにあるムハンマド5世廟
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しかしながら、フランスのインドシナ戦争の敗戦した事で、1955年に彼は復権し、翌年にモロッコ独立を達成しました。
またスペイン地区、タンジェ地区の主権も回復されました。
ムハンマド・ベン・ユースフはスルタンから王に改称、ムハンマド5世アラウィー朝13代として、モロッコの立憲君主制国家再建に取り組みます。





2022年4月 3日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[3]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [3]

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- African modern history / present history - Morocco  

第3回  ワッタース、サアド、アラウィー朝まで

■弱体王朝ワッタース朝

マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立しました。
ワッタース朝は時期としては、大航海時代の初期にあたり、タンジェ、ララシュ、アザンムールと、ポルトガルに次々と都市を攻略された弱体な王朝でした。
ワッタース朝ではキリスト教勢力に対抗する措置として、シャリーフやスーフィ教団長の役目が重視されました。

マラケシュ 市場
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■サアド朝によるアガディール奪還

弱体化したワッタース朝に代わって盛り返したのが、スーフィー王朝のサアド朝です。
スーフィー教団で開祖のムハンマド・カーイムはポルトガルにジハードを宣言します。
彼の死後もサアド朝は攻略されたアガディールなどを奪還、ワッタース朝を滅ぼし、オスマントルコ帝国をしりぞけました。

モロッコのモスク
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■ポルトガル軍を破るサアド朝

サアド朝は、1578年に後継者問題に乗じてポルトガルの国王セバスティアン1世がモロッコに進軍したが、アルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、セバスティアン1世は戦死しました。


スパイシーなスープ
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モロッコ のサアドはスルタン マンスールの時期最盛期わ迎え、サハラ超えし、西アフリカの都市トゥンブクトゥ支配します。
サハラ遠征はモロッコとサハラ双方に様々な文化交流を引き起こし、サハラにはマグリブの学問文化が伝えられました。この時期、弱体化したモロッコが多いに勢いを盛り返した時期と言えます。
彼の死後サアド朝も後継者争いにより弱体化します。

珍しいメクネスの日時計
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■アラウィー朝  スルタン・イスマーイールによるメクネス建設

1660年にアラウィー朝が成立します。アラウィー朝もサアド朝と同じくスーフィー王朝で現在でも続いているモロッコの王朝です。

アラウィー朝の中でも権力を発揮したのが、スルタンイスマーイール(ムーレイ・イスマーイール・イヴン・シャリーフ)で、モロッコ最盛期を築き軍事的成功をおさめます。彼の黒人親衛隊(又はアビド・アル=ブハーリー)という黒人奴隷を頼りとした強力な軍隊の創設により、政権基盤の強化を行いました。

メクネスを作ったスルタン・イスマーイール
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彼はメクネスに遷都しモロッコ に平和をもたらしたとも言われますが、一方で彼の残酷さと厳格さから、ヨーロッパ諸国からは血まみれ王(bloody king)」、また母国では「戦士王(Warrior King)」と呼ばれていました。

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Wikipedia より
イスマーイールはサレとラバトに拠点とする海賊船の艦隊を支配し、彼らが地中海と黒海での襲撃を通じて彼にキリスト教徒奴隷や武器を供給していた。彼は特にフランス王国、グレートブリテン王国、スペインといった海外の強大国と重要な外交関係を樹立した。そのカリスマ性と権力の大きさから同時代のルイ14世と比較されることも多く、イスマーイールはその残酷さと即決裁判の厳格さから、ヨーロッパ諸国では「血まみれ王(bloody king)」との渾名がつけられた。また母国では「戦士王(Warrior King)」として知られている。
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モロッコ名産アルガンオイルの実
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彼はメクネスに遷都後、古い建物を片っ端から壊し、数多くの壮大な宮殿、庭園、記念碑的な門、モスクや40km超におよぶ壁などを含む、巨大な城塞と宮殿作りに取り組みます。

同じ時代にヨーロッパで太陽王として君臨したルイ14世のエリザベス宮殿に対抗したとも言われています。

1727年にイスマーイールは病死ししました。

2022年3月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[2]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [2]





Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  [2]
第2回  ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝

〇ムラービト朝 (1040年 - 1147年)
イブン・ヤースィーン建国
マラケシュの繁栄 

イドリース朝が王族争いで衰退すると、代わって南サハラからきたムラービト朝が栄え始めました。

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ムラービト朝は北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民が母体となり、モロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝です。

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マーリク派法学者であったイブン・ヤースィーンと彼の教説を支持するサンハージャ族一派は、現在のモーリタニアにあるセネガル川にある島に城塞(ラバート)を築いてそこに籠もり厳しい修道生活を始めました。修道生活に努める一方、彼は将来の教え勢拡大を考えて、身体を鍛え、剣術などの武術を磨いたそうです。

そのため、彼らは、「城塞(ラバート)に拠る人々」という意味の「ムラービトゥーン」と呼ばれます。 

彼の時代は、ラクダ遊牧民の宗教改革運動で、サハラ交易を通して運ばれた金により、新都マラケシュは繁栄しました。

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カリスマ的なイブン・ヤースィーンは、1058年に暗殺されてしまいます。

その後ムラービト朝はモロッコを制圧したのち、ユースフ・イブン・ターシュフィーン(位1061年~1107年)が現れます。有能な君主だった彼は、マラケシュの町を自らの手で立ち働いて整備し、モスク建設、灌漑路の開発を行い、「預言者ムハンマドと同様」という賛辞を浴びました。

ユースフは出兵、カスティーリャのアルフォンソ6世と会戦を行なっいましたが、ムラービト軍の太鼓の音と隊列に恐れをなしたカトリック連合軍は敗走したと言われています。

ユースフ死後、モロッコでは各地で反乱がおき、マラケシュはムワッヒド朝に攻め滅ぼされ陥落してしまいます。
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〇ムワッヒド朝  (1130年 - 1269年)

自ら救世主と称したイブン・トゥーマルト

ムラービト朝に続いてムワッヒド朝も宗教運動により生じました。始祖イブン・トゥーマルトは各地を遊学して独自の神学を打ち立て最終的には自ら救世主と称しました。

しかしがらマーリク法学派が完全に優勢であり、ムワッヒド朝もこの流れを抑えることはできませんでした。

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〇マリーン朝 (1196年 - 1465年)

その後12世紀末から15世紀末にかけて現れたのがマリーン朝というイスラーム国家です。

マリーン朝の国旗
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マリーン朝は、ザナータ系ベルベル人のマリーン族によって建国されました。フェズを首都とし、マグリブ西部を支配します。
宗教改革ではない勢力を母体とした彼らは、マドラサを建設しマーリク法学派を擁護て優遇措置を取りました。マリーン朝ではムワッヒド主義は継承されず、マーリク派が採用されました。
マーリク派は主に都市部で支持され、地方では聖者崇拝思想(マラブーティズム)の影響が強くなりました。

2022年2月 5日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[1]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [1]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco

モロッコは数多くの王朝が興亡したムスリムの国でアフリカ北西部に位置する立憲君主制の国家です。
西は大西洋、北は地中海、南東はサハラ砂漠、中央にはアトラス山脈がそびえています。

アトラス山脈はサハラ砂漠の熱風を遮るとともに、地中海の湿気で雨をもたらすことで、モロッコのあるマグレブ地域の住民に住みやすい環境を提供しています。

モロッコは1000年以上の歴史を持つフェズ、首都ラバト、マラケシュ、カサブランカ、シャウエン、メクネス、ムーレイイドリス、ワルザザード、エッサヴィラ、タンジェなど歴史のある都市が多数あります。

古都マラケシュ
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モロッコの歴史イスラム教成立の時期と同じですから、エジプトのように紀元前に遡る古さではありません。

今回よりモロッコの歴史と文化を5回に分けてお送りします。
第1回  イスラム教の到来、イドリス朝の成立
第2回  ムラービト、ムワッヒド、マリーン朝
第3回  ワッタース、サアド、アラウィー朝
第4回  近現代  ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立

最終回はモロッコの歴史的に有名な観光都市をいくつかご説明します。

イスラム教の栄華と発展を象徴するかのような、モロッコの歴史をご紹介出来ることを嬉しく思います!

モロッコ ワルザザート
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モロッコ マグレブ料理
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先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れました。モロッコの人口の多くはアラブ人とこのベルベル人が占めており、ベルベル人はモロッコの独立自治を守り、歴史の中で大きな役割を果たした民族です。

紀元前3世紀からベルベル系のマウレタニア王国が栄えました。このマウレタニア王国はローマの支配下で衰退します。
ローマ支配下のモロッコでは、タンジェ、リクソスなどローマ風都市が建設され内陸部で栽培された小麦、オリーブがイベリア半島に輸出されました。しかしながらアトラス山脈以南やサハラ砂漠以南ではローマの影響はほとんど受けませんでした。

マラケシュの市場
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モロッコにイスラームの到来

最初にイスラーム都市が北アフリカに現れたのは、今のチュニジアにあたる地域に建設されたカイラワーン(ケルアン)です。チュニジア中部の内陸部にある古都であり、670年,ウマイヤ朝が派遣した北アフリカ総督ウクバ・ブン・ナーフィーが建設した軍営都市で、マグレブ地方最古のイスラム都市です。

8世紀初頭にはイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まります。
788年にアッバース朝に対し反乱を起こし、その勢力争いに敗れたアラブ人 ムーレイ・イドリース1世はモロッコの母方の地域に亡命しました。

ムーレイとはイスラム教で「聖者」の意味です。
(イスラム聖者の話はまた別途説明の機会を設けようと思います。)

イドリス朝の建国と伝説

たぐいまれな才能に恵まれ勇敢なイドリス1世紀は、原住民ベルベル人の支持を受け、フェズ  にイスラム王朝を築きました。彼は渾身の力でベルベル人、アラブ人をイスラム教に改宗させます。

イドリース1世はシャリーフという預言者ムハンマドの末裔の家系でした。

フェズは1000年以上続く世界最大の迷宮都市であり、一説によれば神のお告げで生まれた都市と言われています。イドリス1世がフェズを建国した時にこのような伝説があったと言われています。


有名なフェズの染色作業

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イドリス1世がフェズ川周辺に都市の建設の構想を練っていたとき、老人が現れて「この地にはかつてフェズという都があったが、滅んでしまった。やがてイドリスを名乗る男がやってきて町を再建するでしょう。」と告げたことで、彼は「この町の再建が神から与えられた私の使命であり、アッラーの名のもとにこの町をフェズと名付けよう。」と、決意したといわれています。


イドリス1世が亡くなったあと、彼は自分の作ったイスラム教の聖者の街「ムーレイイドリス」の霊廟に埋葬されました。今でもこのイスラム教の聖地は緑の街と言われて、山奥で神秘的な雰囲気をたたえているそうです。

フェズの大発展

その息子ムーレイ・イドリース2世の時代にフェズは正式に首都となります。チュニジアやスペインから新しい移住者を受け入れました。
街の中心にはフェズの建設者イドリース2世の霊廟(「サヴィア・ムーレイ・イドリス廟」)があり、国中から巡礼者があとをたちません。巡礼者はバラカ(神の祝福)を得ようとして、墓に近づいて祈願し、子育てや結婚祈願をするのでした。

イドリース2世のもと、フェズはイスラム諸学の知識人が集まるモロッコの芸術・文化・学問の中心地として繁栄し、マドラサという学校も作られました。
フェズは驚異的な発展を遂げ、857年から859年にかけてカラウィンモスクが設立されました。
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2022年1月 5日

『バラカ』(神の恩寵) "البركة"


モロッコ  マグレブ料理で、輝かしい北アフリカ イスラム王朝の1200年の歴史を見た‼️


『バラカ』(神の恩寵) "البركة"

    「私達は自由と独立に向かっている」


あけましておめでとうございます。

『原初の精神 』アフリカ史を連載していますが、
来月からいよいよモロッコ史(全5回)をお届けします。

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モロッコ の輝けるイスラム王朝の興亡と、植民地からの独立の歴史、そして美しい都の成り立ち、スルタンの活躍を一通り記事を書かせて頂き、本当に感動が込み上げて参ります。

フェズ
マラケシュ
カサブランカ
ムーレイイドリス
ラバト

今日はモロッコ 史を書き上げたお祝い❓に家族で
都内でマグレブ料理パーティー🎉でした。

今年もモロッコ を初めとしたアフリカ諸国の独立の軌跡をご紹介することで、その精神を学んでいくきっかけになれればと存じます。

皆さまにも『バラカ』(神の恩寵)البركة
が降り注ぎますように!

何卒本年も宜しくお願い申し上げます。


⭐️アフリカ大陸上陸  大遠征の日が来る‼️⭐️

「Alandalus」江古田 モロッコ マグレブ料理

タジン鍋 
アツアツの牛肉鍋とチキン鍋。スパイシーでパンに合う
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ミントティー 
とっても香りが良くて皆な気に入りました
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店内は優しい日差しとモザイク
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カサブランカはあの映画の地
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色鮮やかなモロッコのガラス瓶
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