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2023年7月11日

タンザニア紀行 4/1 アフリカ出発

キリマンジャロ登山は頂上ではありませんが、
ギルマンズポイント(5685m)まで登って参りました。
日浦先生や皆様の応援に心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。涙

🔶4/1  アフリカ出発🔶
 
今日からいよいよアフリカのキリマンジャロに
登山にいく日となりました。
お天気は快晴。コロナの影響で海外旅行は5年ぶりくらいです。
これから京成船橋から京成成田第一ターミナルへ向かいます。
 
色とりどりの壺を作る子供たち
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フレーバーな味のお菓子
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アフリカの霊峰キリマンジャロ

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久しぶりの海外旅行への解放感に悦びがふつふつと湧いて参ります

ここ数年アジア・アフリカ・シルクロードやイスラム教を研究してきましたので、アフリカに行くのは大変楽しみです。
 
キリマンジャロはアフリカ 最高峰の山で、タンザニア原住民のマサイ族の方たちはこの山を「神の山」と呼ぶそうです。
 
なぜか麻酔がかかったかのように、標高5895mのキリマンジャロに登る緊張感もプレッシャーもありません。
こんな軽い気持ちでアフリカに向かってよいのでしょうか。
 
タンザニアには有名な観光地や見所が沢山あります。
 
・キリマンジャロ、セレンゲティ国立公園
・野生動物
・ティンガティンガ絵画
・フルーツ天国
・ダルエスサラーム フィッシュマーケット
・イスラム教とキリスト教が混在した文化
・マサイ族やスクマ族、マコンデ族など民族の多様性
・アルーシャの文化遺産センター
 
そして、
世界遺産 ザンジバル島
これは避けて通れないテーマです。
 
◼️準備万端で元気に出発
 
荷物を詰めながらこれからの2週間がどうなるか考えると、ワクワクしてまいりました。
 
スーツケース一つ、リュック一つ、カバン一つ
 
靴は登山靴、しかも荷物を最小限にするために、足りない登山用品は登山会社からレンタルすることにしました。
 
エチオピア航空は、機内手荷物ならバッテリーや電池40個は持ち込みOKなはず。
体調不良が怖いので風邪薬や頭痛薬、高山病の薬は完備しました。
 
今日は、成田空港第一ターミナルに早めについて空港のローソンでWi-Fiを受け取ります。そしてお弁当を食べてチェックインまで時間を過ごしました。
 
◼️成田空港夜20:15
 
今回は、「エチオピア航空アジスアベバ ポレ空港経由 ⇒キリマンジャロ空港」で向かう予定です。
 
チェックインカウンター33番ゲートは、有色人種のアフリカの服を着た方が数名いらっしゃいます。
 
エチオピア航空に初めて乗りましたが、飛行機のプロモーションビデオが素晴らしいです。
なんか教会やエチオピアの十字架の遺跡が出てきて、表現力がなかなか迫力があります。
 
機内食は最初は美味しいパンケーキです。
 
機内食1回目:
アップルソース付きパンケーキ
クロワッサン・フルーツ・フルーツジュース
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さあ、これから韓国でサーチャージ。トータルで約20時間のフライトです。
登山前なので飛行機の中でも風邪や疲労に十分気を付けないといけません。
 

2022年9月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[1]ニコラスおめでとう

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- ウガンダ[1]  ニコラスおめでとう

Primordial spirit
- African modern history / present history - Uganda[1] 

今月よりウガンダ時事ニュースをとして、歴史とは少し離れますがウガンダの人道的活躍と悪法の改正と和平に貢献した勇敢な弁護士を紹介します。

ニコラス・オピヨ弁護士(Nicholas Opiyo)はウガンダの人権派弁護士です。

「人権擁護家の仕事は、医師、看護師、農民、消防士の仕事と同じくらい重要です。
医者と消防士がいなければ、私たちは持っているものを失う可能性があります。
私たちの生活、私たちの家、そして人権擁護家がいなければ、私たちは自分たちが何であるかを失います。」(2021年12月6日彼のオランダのヒューマン・ライツ・チューリップ賞の受賞式での外務大臣によるスピーチ)

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ヒューマン・ライツ・チューリップ (Human Rights Tulip) は、世界中で人権を擁護し保護する活動を行う人権擁護者を支援するために、オランダ政府が毎年授与している賞です。
2021年はニコラス・オピヨ氏がヒューマン・ライツ・チューリップ受賞者に選ばれました。

ウガンダの公民権と政治的自由、特に選挙法、集会の自由の制限、言論の自由と報道の自由、市民権獲得のために戦い続けました。
そしてウガンダにおいて拷問を犯罪とみなす違法化、また反同性愛法への異議申し立てを成功させました。
弁護士という立場で暴力に晒されている犯罪者と同性愛者に法的に擁護したのです。

2017年にドイツアフリカ賞を受賞
2015年にヒューマンライツウォッチと欧州連合議会から 'Voices for Justice Award'を受賞
2016年のサハロフフェロー賞
2015年にアリソンデフォルジュ賞を受賞

彼はチューリップ賞含めて6つ受賞したことになります。
オピヨ氏は、憲法に関するハイレベルな申し立てをいくつか成功させているそうです。その1つが悪名高い2013年の反同性愛法で、同法は2014年8月に無効が宣言されました。
抑圧的な政権の支配下で、全ウガンダ国民の人権を擁護する活動にゆるぎない献身を続けるニコラス・オピヨ弁護士の実績は賞賛すべきものです。

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彼の国の背景について簡単に説明しますと、ヨウェリ・カグタ ムセベニ現ウガンダ大統領と、反政府勢力グループの1つである、軍閥ジョセフ・コニーが率いる「神の抵抗軍」との間で市民を巻き込む衝突があり、抑圧的な政治が続いています。

オピヨ氏の立場は中立でどちらが正しいという見解ではありません。軍閥ジョセフ・コニーが率いる「神の抵抗軍」 (LRA)は、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、少年兵を使ったゲリラ闘争で暴力性が強く、一方でムセベニ大統領側も権力志向で残忍だといわれています。

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【Wikipedia より】 
ヨウェリ・ムセベニ - Wikipedia (現ウガンダ大統領 Yoweri Kaguta Museveni)

「ムセベニの部下が最初に来たとき、彼らは非常によく行動しました。私たちは彼らを歓迎しました。しかし、その後、彼らは人々を逮捕し、殺し始めました」とある村人は言いました。」

1989年3月、アムネスティインターナショナルは、ウガンダに関する人権報告書「ウガンダ、人権記録1986-1989」を発表しました。それは、NRA軍によって犯された重大な人権侵害を文書化した。戦争の最も激しい段階の1つである、1988年10月から12月の間に、原子力規制委員会はグルという町とその周辺の自宅から約10万人を強制的に排除した。兵士たちは、人々を強制的に動かし、家や穀倉を焼き払ったため、何百もの超法規的に殺害したとされる。

一方で政治専門家はムセベニ氏を「アフリカのビスマルク」と呼んでおり、かつてはタンザニアで大学講師を務めるなどインテリであり、国家的な女性差別是正措置計画でも賞賛されている。彼は約10年間副大統領に女性のスペシオーザ・カジブウェを据えるなど、女性の大学進学に貢献したとされる。

【Wikipedia より】

ジョゼフ・コニー (Joseph Kony, 1962年 - ) はウガンダの反政府勢力神の抵抗軍 (LRA) の指導者。霊媒であると主張し、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、ウガンダ北部を中心として1987年以降残虐行為を伴い、また少年兵を使ってゲリラ闘争を続けている。





2022年8月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[6]モロッコの観光地

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原初の精神 モロッコ [6]
モロッコの観光都市

アラビアとヨーロッパの融合

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco[6] 

モロッコはアラビア世界とヨーロッパ世界が融合したエキゾチックな風景を楽しむことができます。国内には、旧市街地や古代遺跡など多くの世界遺産あり多くの観光客がおとづれます。またアフリカ最大級のショッピングモールやスークの買い物でアラビアの芸術やファッション、雑貨を楽しむことができます。

食文化や歴史や風土、イスラム建築、イスラム文化などなど、モロッコの国の魅力に取りつかれた方も多いのではないでしょうか。

アラビアやイスラム教は日本人には馴染みが薄いかもしれませんが、実際は芸術や歴史にはとても神秘的な美しさや奥ゆかしさがありますので、この機会にモロッコの国に親しんでいただければと思います。
今回の記事は随時加筆、更新させていただく予定です。

〇モロッコの観光都市〇
フェズ
メクネス
ムーレイイドリース
シャウエン
マラケシュ
カサブランカ
ワルザザード砂漠の街
ラバト


次回は「原初の精神 ウガンダ時事ニュース」をお送りします。

フェズ
フェズ・エル・バリ(通称フェズ)は「世界一の迷路の町」であり、世界中の人々を魅了し続けている街です。アフリカ大陸のモロッコ王国で、エキゾチックな街並みが広がるフェズは、観光で人気の都市。中でも、世界遺産に登録されている巨大な迷路のような旧市街が見どころです。現在では、敬虔やイスラム教徒が暮らす迷路のようなメディナ(旧市街)には、モロッコ特有のバザールが広がっており、伝統的なスパイスや、ムスリムの習慣に基づいて屠殺されたハラルの食材等が街中で売られ、イスラムの文化を存分に楽しむことができます。フェズには、古くから伝わる様々なモロッコ文化が今も息づいており、観光の見どころの一つとなっているのが、伝統工芸である皮なめしの加工場「タンネリ」で巨大な革の染色の工場の姿を見ることができるそうです。
なんといってもイスラム建築の素晴らしさを今に伝えるマドラサ(学校)、モスクや王宮等があり、豪華絢爛な建築物も見どころです。旧市街では、100以上の手工業が今も営まれており、職人たちが一つ一つ手作りした多種多様な工芸品がバザールで売られています。フェズ観光のおすすめスポットは「ブー・ジュルード門」(Bab Bou Jeloud)です。イスラム様式で建てられた壮麗な幾何学模様の門が勇名だそうです。
フェズ川沿いにはなめし皮職人街であるシュアラが広がり、シェッラティーン通りには民族衣装を扱う店が並んでいます。また有名なカラウィーン・モスクは、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっているモスクです。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが859年には宗教教育を始め、現存する世界最古の大学とも言われます。
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ムーレイ・イドリス 
メクネスから北へ22キロ、ザルフォーン山脈山沿いに白い家が立ち並ぶ。敬虔なイスラム教の聖者の街が、古都ムーレイイドリスです。モロッコ北部の町。8世紀末、アッバース朝に追われたムーレイ=イドリス1世が同国初のイスラム王朝であるイドリス朝を開いた地として知られます。丘の上のホルムとよばれるイスラム教徒の聖域には、ムーレイ=イドリス1世の霊廟がある。毎夏の聖者祭には多くの巡礼者が訪れます。
彼の霊廟には非イスラム教徒は入ることができず神秘的な雰囲気が漂います。
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シャウエン
シャフシャウエンまたはシャウエン ( アラビア語: 4A4'HF/'D4'HF 、スペイン語: Xauen、英語: Chefchaouen)はモロッコ北部の都市。青色の建物群で有名です。
シャウエンはタンジェや、スペインの飛地であるセウタに近く、スペインを中心とするヨーロッパからの観光客に人気がありあります。この都市の名前は、町から見える2つの山の頂きから来ており、それらはヤギの2つの角のように見えます。約200軒のホテルが、夏やクリスマスなどにヨーロッパから訪れる観光客を迎えます。シャウエンの一角には青く色付けられた家および建物があります。
シャウエンには、ウールの衣服、毛織物など、モロッコの他の場所で手に入れることのできない現地の手工芸品が数多く売られ、買い物先として人気です。当地原産のヤギのチーズも名物であります。
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カサブランカ
カサブランカは、大西洋に面したモロッコ最大の都市、モロッコの商業・金融の中心地です。
ダウンタウンにはムーア様式と欧州のアールデコ様式が混ざったモレスク建築があり、フランス領時代の名残があります。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの主演映画『カサブランカ』(1942年アメリカ)でも有名です。北部は大西洋に面した湾岸都市で、発展を続けています。高いビルが建ち並ぶ大都会でありながら、旧市街「メディナ」には昔ながらの暮らしが息づき、食料や金銀、香辛料などが並ぶマーケット「スーク」があって散策すると楽しいです。

一部が海に突き出た 1993 年完成の巨大なハッサン 2 世モスクには 210 m のミナレット(尖塔)があり、その頂上からはメッカの方向に向けてレーザー光線が発せられるようになっているそうです。

ムハンマド5世国際空港が郊外にあり、ロイヤル・エア・モロッコのハブ空港として機能している。カサブランカ中心部へは鉄道で結ばれている。日本との直行便はないので、ヨーロッパなどの空港で乗継が必要となります。
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ラバト
ラバトはアフリカにあるモロッコ王国の首都。市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)。ラバトとは「駐屯所」の意味です。人口ではモロッコ最大の商業都市カサブランカなどに次ぎ第3位の都市として、また首都としての機能のため、外国公館も存在し来訪者も多いです。
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マラケシュ 
モロッコ第三の都市マラケシュは、雑貨の聖地として有名な街で、王宮やバイーヤ宮殿、サード朝の大廟墓群など観光名所が目白押しです。中でもジャマエルフナ広場やスークは、屋台も出ている必見のスポットが沢山あります。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し「南の真珠」と呼ばれてきました。現在は経済の中心地として栄え、モスク、宮殿、庭園があります。人や建物が密集するメディナ地区は、ベルベル人の帝国時代に張り巡らされた城壁が残る中世都市です。迷路のように入り組んだ路地には活気あふれるスーク(市場)があり、伝統的な布地、陶器、宝飾品が売られています。
生活雑貨から織物やタジン鍋やバブーシュとお土産物も沢山あります。モロッコならではのミントティやクスクスなど独得の料理を味わって下さい。
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ジャマエルフナ広場
ジャマ・エル・フナ広場では、スパイスを求めて買い物に来る地元の人や、観光の合間に休憩する観光客で昼夜を問わずにぎわっています。観光客向けの個性的でかわらしいアラビアンライトや、アラブ風の模様が描かれた食器がたくさん陳列されています。

現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ毎日がお祭りのような楽しい雰囲気の広場です。 屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるそうです。
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メクネス
城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。北部には、聖地ムーレイ・イドリスや古代ローマ遺跡で世界遺産に登録されているヴォルビリスの古代遺跡があります。
なかでもイスマイル王はフランスのルイ14世に傾倒し、メクネスを「モロッコのヴェルサイユ」にすべく大改造を行います。古い建物を取り壊し、イスラム文化とヨーロッパ文化が融合した、イスパノ・モレスク様式と呼ばれる建築物を次々に建造しました。
城壁に囲まれた古都メクネスの入口にあるマンスール門は、精緻(せいち)なモザイクや彫刻が施され、北アフリカでも美しい門の一つとして知られ、王都のエリアへのメインゲートになっています。
馬蹄型のアーチは青と緑のモザイクで彩られ、壁の斜め格子の彫刻が美しい陰影をつくっています。

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ワルザザート
ワルザザートは標高1,160mにあるとても美しい都市です。カスバ街道上にあり、アトラススタジオはワルザザート西部にある世界最大規模の映画スタジオです。サハラ砂漠入り口の町で遠くにはオート・アトラスを望み、日干しレンガの村・ダデス川沿いのカスバ街道で知られています。
1983年に設立されて以来、ワルザザートの映画産業の中心となっています。不朽の名作「アラビアのロレンス」に始まり、人気大作「ハムナプトラ」や「スターウォーズ」など数々の名作が撮影されてきました。実際に映画で使用されたセットがたくさん公開されていています。
マラケシュからワルザザートへの道を地図上で辿ると、ちょうどその間にあるのが、世界遺産アイト・ベン・ハッドゥ。モロッコの隊商交易の中継地として栄え、要塞のように積み立てられた集落が点在しています。
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2022年5月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[4]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [4]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

第4回  近現代  ムハンマド5世、ハッサン2世、ナショナリズムと独立まで

19世紀フランスのモロッコ進出

1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まるモロッコの主権も危機に脅かされ、ヨーロッパ列強の争いに巻き込まれていきます。

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1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、イスーリーの戦いで敗れるなど、ヨーロッパの圧力下、次第に戦争に破れるようになりました。

1912年モロッコは「フェズ条約」により、アラウィー朝はフランスの保護領になります。また鎖国政策の中で唯一外交を許されたタンジェは、23年間国際管理下になりました。フェズ条約により、モロッコの実権はフランスとスペインが握り、アラウィー朝は存在するものの、実態は植民地に他ならなかったのでした。

この時期フランス人L.リヨテが初代総督になります。フランスによるモロッコ統治を完成させた彼は首都をラバトに定めました。

モロッコの女性たち
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ベルベル勅令が発端となったナショナリズム

モロッコのナショナリズムが組織的な政治運動として現れるきっかけとなったのは、フランス保護領下で発せられたのが、悪名高き「ベルベル勅令」です。
これはアラブ人の多く住む都市部と山岳部のベルベル人居住地を区別するものでした。ラバト、カサブランカ、フェス、メクネスなどの重要都市と、ベルベルの山岳地帯を、これら都市部との接触をなるべく遠ざける方法です。

これはアラブ人をシャリーア、ベルベル人を慣習法で裁判を行う分割統治でした。
(いわゆるバラバラ勅令)

ベルベル慣習法は結局フランスの法制度に編入するものであるため、これによりアラブ、ベルベルの双方からなるアイデンティティは崩れることなり、国内から反発を呼ぶものになったのです。

マラケシュのスパイス
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この頃から、イスラム法学者、知識人、エリートの中から反仏運動が盛んになり始め、1933年にはアラール・ファーシー、ムハンマド・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えた。しかしながら彼らは活動中逮捕幽閉され、一時期モロッコの独立運動はリーダー不在の混迷した時期を迎えました。

第二次世界対戦中モロッコはナチスドイツに降伏し共和制が崩れた時期がありましたが、フランスはすぐ奪回します。
また。大戦中にはルーズヴェルトとスルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) が会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めました。

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スルターン  ムハンマド・ベン・ユースフ(後のムハンマド5世) とは

フランスから独立を勝ち取ったモロッコの国民的英雄である。アラウィー朝モロッコの第26代,28代スルターン、初代国王。
ラバトのムハンマド5世大学、カサブランカのムハンマド5世国際空港はムハンマド5世にちなんでそれぞれ命名された。一時はスルタンの座を追われ、マダカスカルに亡命しながらも国民の人望を集め、1956年見事にモロッコを独立に導いた建国の父でもある。

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モロッコ王 ムハンマド5世
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第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で独立運動が過熱するなか、第四共和制はナショナリズムを鎮圧することはできませんでした。植民地側は妥協案として、共同主権を提言しましたが、これはモロッコの完全独立を目指す側から拒絶され、ますます火に油を注ぐことになります。

モロッコの独立の達成

ナショナリズムの高揚の最中、フランスに敵視されたムハンマド・ベン・ユースフはマダガスカルに国外追放され傀儡政権となります。このことはモロッコ人の反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至りました。

ラバトにあるムハンマド5世廟
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しかしながら、フランスのインドシナ戦争の敗戦した事で、1955年に彼は復権し、翌年にモロッコ独立を達成しました。
またスペイン地区、タンジェ地区の主権も回復されました。
ムハンマド・ベン・ユースフはスルタンから王に改称、ムハンマド5世アラウィー朝13代として、モロッコの立憲君主制国家再建に取り組みます。





2022年4月 3日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- モロッコ[3]

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原初の精神  -アフリカ近代史・現代史- モロッコ  [3]

Primordial spirit 
- African modern history / present history - Morocco  

第3回  ワッタース、サアド、アラウィー朝まで

■弱体王朝ワッタース朝

マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立しました。
ワッタース朝は時期としては、大航海時代の初期にあたり、タンジェ、ララシュ、アザンムールと、ポルトガルに次々と都市を攻略された弱体な王朝でした。
ワッタース朝ではキリスト教勢力に対抗する措置として、シャリーフやスーフィ教団長の役目が重視されました。

マラケシュ 市場
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■サアド朝によるアガディール奪還

弱体化したワッタース朝に代わって盛り返したのが、スーフィー王朝のサアド朝です。
スーフィー教団で開祖のムハンマド・カーイムはポルトガルにジハードを宣言します。
彼の死後もサアド朝は攻略されたアガディールなどを奪還、ワッタース朝を滅ぼし、オスマントルコ帝国をしりぞけました。

モロッコのモスク
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■ポルトガル軍を破るサアド朝

サアド朝は、1578年に後継者問題に乗じてポルトガルの国王セバスティアン1世がモロッコに進軍したが、アルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、セバスティアン1世は戦死しました。


スパイシーなスープ
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モロッコ のサアドはスルタン マンスールの時期最盛期わ迎え、サハラ超えし、西アフリカの都市トゥンブクトゥ支配します。
サハラ遠征はモロッコとサハラ双方に様々な文化交流を引き起こし、サハラにはマグリブの学問文化が伝えられました。この時期、弱体化したモロッコが多いに勢いを盛り返した時期と言えます。
彼の死後サアド朝も後継者争いにより弱体化します。

珍しいメクネスの日時計
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■アラウィー朝  スルタン・イスマーイールによるメクネス建設

1660年にアラウィー朝が成立します。アラウィー朝もサアド朝と同じくスーフィー王朝で現在でも続いているモロッコの王朝です。

アラウィー朝の中でも権力を発揮したのが、スルタンイスマーイール(ムーレイ・イスマーイール・イヴン・シャリーフ)で、モロッコ最盛期を築き軍事的成功をおさめます。彼の黒人親衛隊(又はアビド・アル=ブハーリー)という黒人奴隷を頼りとした強力な軍隊の創設により、政権基盤の強化を行いました。

メクネスを作ったスルタン・イスマーイール
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彼はメクネスに遷都しモロッコ に平和をもたらしたとも言われますが、一方で彼の残酷さと厳格さから、ヨーロッパ諸国からは血まみれ王(bloody king)」、また母国では「戦士王(Warrior King)」と呼ばれていました。

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Wikipedia より
イスマーイールはサレとラバトに拠点とする海賊船の艦隊を支配し、彼らが地中海と黒海での襲撃を通じて彼にキリスト教徒奴隷や武器を供給していた。彼は特にフランス王国、グレートブリテン王国、スペインといった海外の強大国と重要な外交関係を樹立した。そのカリスマ性と権力の大きさから同時代のルイ14世と比較されることも多く、イスマーイールはその残酷さと即決裁判の厳格さから、ヨーロッパ諸国では「血まみれ王(bloody king)」との渾名がつけられた。また母国では「戦士王(Warrior King)」として知られている。
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モロッコ名産アルガンオイルの実
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彼はメクネスに遷都後、古い建物を片っ端から壊し、数多くの壮大な宮殿、庭園、記念碑的な門、モスクや40km超におよぶ壁などを含む、巨大な城塞と宮殿作りに取り組みます。

同じ時代にヨーロッパで太陽王として君臨したルイ14世のエリザベス宮殿に対抗したとも言われています。

1727年にイスマーイールは病死ししました。

2021年11月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- アンゴラ


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Primordial spirit 
- African modern history / present history - "Angola"

原初の精神 「アンゴラ」 

長年の独立戦争で疲弊した国

アンゴラ共和国(ポルトガル語: Republica de Angola)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制の国家です。

アンゴラは長年ポルトガル植民地でした。1961年から10年以争は、ポルトガルとアンゴラ双方を大きく疲弊させました。

内戦終結後は原油やダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に経済発展が見られ、首都ルアンダは大都市化しました。

しかし、20年間以上続いた内戦のために1000万個を超える地雷が未だに埋まっているそうです。
さらに、首都のルアンダでは2009年時点で世界一物価が高いことや、原油価格が下落し、数多くの貧民とスラムを抱えたなど数多くの問題を抱えています。

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Photo by Andreas from Pexels


(以下Wikipedia より) ------

かつてはコンゴに代わって奴隷の供給源になった歴史も

1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代に、コンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと改名した。その後、ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていた銀の供給源と見なし、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスがポルトガル領アンゴラを、翌1576年にルアンダを建設し、ポルトガルはルアンダを拠点にさらなる奴隷の供給を求めて、さらにアンゴラ内陸部への侵略を行った。

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1961年アンゴラ解放人民運動(MPLA)が、政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃しアンゴラ独立戦争(ポルトガルの植民地戦争)が始まりました。紆余曲折のすえMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言しました。

しかし独立を果たした後も内戦が続き、以下の3勢力により支配地域が分かれます。

- ソビエト連邦が支援するアンゴラ解放人民運動MPLA
- アメリカ合衆国が支援するUNITA
- 中華人民共和国とフランスが支援するFNLA連合

アンゴラは第2代大統領にMPLAジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任し、社会主義陣営との結び付きを強めMPLAによる一党制を敷きました。

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中国とアンゴラの関係

冷戦終結後、中国はインフラ整備を行い、アンゴラに対し2007年までに1兆5000億円の資金援助をしました。また、アンゴラは原油の4分の1を中国に輸出しており、最大の輸出先になりました。

また外国企業の進出も盛んであり2004年に中国の政府系金融機関中国輸出入銀行(中国进出口银行)は20億ドルの現金をアンゴラに貸し出しローンはアンゴラのインフラの再建に使われました。

現在では中国はアフリカ諸国に対する債務超過をかかえ、アフリカとの蜜月は終わったという説もあります。

石油産業の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、ソナンゴル(Sonangol Group)によって強化されました。

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経済成長を遂げた首都ルアンダ

アンゴラは、ナイジェリアに継ぐ産油国で、世界の石油の50分の1をアンゴラが産油するようになった時期もありました。石油の売上がGDPの3分の1、また輸出額がアンゴラ全体の90%を占めていたそうです。
その石油事業の実権を握ったのが国営の石油会社ソナンゴル(Sonangol Group)でありコングロマリット(同族企業)です。
ソナンゴルはドス・サントス氏の家族と彼の政党の権力者層によって直接的に管理されていました。
ソナンゴルの石油事業がアンゴラの経済成長を大きく支えたことは間違いありません。

アンゴラは「ダイヤモンドの原石のような国」と言われているそうです。ダイヤモンド以外に金、銅、ボーキサイト、鉄鉱石、ウラン等様々な資源が眠っています。

経済成長を遂げた首都ルアンダの海岸線には先進的な都市が広がっています。

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■「資源の呪い」とは

ダイヤモンドが取れるのに貧しいのはなぜか?

ここで、少し資源の呪いについて説明します。
「資源の呪い」とは資源の不足が成長を停滞させているのではな く、豊かな資源を抱え込んでしまったことが呪いと なって災いする問題で、1990 年代半ば頃から「資源の呪い(resource curse)」 と呼ばれ、アフリカの抱える問題の一つとなりました。
資源の輸出 比が高い開発途上国で、輸出品への依存度が高いほど1人当たり成長率が低くなるのです。

重要な問題は経済面において石油や鉱物といった特定資源にいつまでも依存することは、国の成長の鈍化と貧困拡大の傾向 を強めるということです。一次産品に頼ることで知的水準も技術力も向上しないのです。このような国家を「レンティア 国家」(もっぱら天然資源等によるレント収入で賄われている国家)といいます。

実際には欧米や中国の資本で鉱産資源の採掘がおこなれ、海外の企業が利益を横取りしています。

そのためにも欧米や中国の企業にいつまでも依存するのではなく、アフリカ独自の企業が中心となっていくことも大切でしょう。

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■女性初めてのアフリカ発億万長者も

1979年9月アンゴラ解放人民運動MPLAの代表  ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス(ポルトガル語: Jose Eduardo dos Santos)が就任して以来高級官僚、軍司令官、政治経済のトップに様々な利益提供がなされるようになりました。以後、2017年にドス・サントス氏が約40年勤めた大統領を退任するまで彼の長期政権は続きます。

またその間娘イザベラ・ドス・サントス氏はここ数年、40ヵ国以上の国々に異なるセクターで数多くの企業を築き上げつつ、ポルトガルの銀行やケーブルテレビ局の株を積極的に購入し巨額の富を得てアフリカで女性として初めて億万長者にランキングしました。

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(しかし租税を回避したり不正蓄財の疑惑で、大統領を引退した父ドスサントス氏の後継者がイザベル氏を解任しました)

アンゴラの物価は以上に高く、海岸沿いのレストランが1人1万円、ホテルが400ドルもしたそうです。
また消費財、生産財すべてが国際価格を上回る値段で取引されて利益も僅かだったそうです。
政府側と反政府側で続いた内戦でインフラである道路、鉄道、工場は破壊され、自分の農地を放棄せざるを得なくなり大量の難民化が起こった為でした。


2021年10月 3日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史-

africa-map.jpg← Freepik - jp.freepik.com によって作成された logo ベクトル

今月よりアフリカ近代史・現代史の連載をお届けします。

Primordial spirit 
- African modern history / present history -

アフリカの文学の子供の絵本の中で、今泉慶一さんの「或る猛獣の運命」にこんな内容がありました。少しだけ内容をご紹介しましょう。

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セネガル生まれのチーターは、足の鍛錬を怠り、しかも年と共に足の衰えが顕著になりました。大好物のトムソンガゼル (カモシカみたいな動物)  を捕らえられなくなり痩せ細って困っていました。

その時突然黒い雲とともに人間の老人が現れ、チーター語で笑いながら言いました。

「わしはお前みたいなやる気のない奴が好きじゃ。死なせるのは惜しい。そこでどうじゃ、わしに頼んでみないか。」
「お前の肉体を改造することは出来る。つまりパワーアップ、筋肉強化じゃ」

自称万物の創造者の年寄りはチーターに、
「若い頃の最高速度200キロで走れるようにしてやろう」と言ったのです。

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年寄りは彼の頭に手をやり、「パワーアップ!」と唱えました。すると彼の四肢はみるみる筋肉が盛り上がって来て見違える身体になったのです。

年寄りは石を、トムソンガゼルに変え追いかけるように言いました。怠け者だったチーターはトムソンガゼルを急に追いかけたため、急に足がもつれて転んで、そのまま絶命してしまいました。

ハッハッハ!わしの思う壺じゃ。

その年寄りは神は神でも死神だったのです。

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この老いたチーターの物語を読んできっと多くの方が、純粋なチーターを騙して死に追いやった男に憎しみを覚えたでしょう。
歴史はいつも純粋な者を騙して掠奪する、狡猾な策略家が天下をとるように見えます。
果たして純粋な精神が負けるのでしょうか...

■アフリカの抱える問題

アフリカは差別と貧困に耐えつつ粘り強く、着実に自由への道を開いています。むしろアフリカは援助ではなく投資すべき国として中国や欧米諸国が注目しているのです。1970年代に多数の国が欧米諸国から独立を果たし、大きく経済成長を遂げメディアの報道するアフリカとは大きく変わりつつあります。

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一方でテロ組織や過激派勢力の影響が根強く、ついこの前もナイジェリアのボコハラムのトップが自爆死し、やっと北アフリカイスラム武装勢力の一つが弱まりつつあります。ナイジェリアはGDPは高いものの石油の利権獲得の盗難や汚職が蔓延し過激派組織の温床になりました。
過激派組織によるテロや掠奪と暴力は現代アフリカにおける根深い問題であり、有名観光地や世界遺産にもかかわらずサヘル地帯は危険地域に指定されているため渡航ができない国々があります。

■世界最悪の現代奴隷大国  モーリタニア

例えばモーリタニアという国は『無給で働く奴隷』が、今だに45000人もいるそうです。(アムネスティインターナショナルの報告書による)
同国は1980年に公式には奴隷制が廃止されました。ただしその後も実態として虐待を伴う奴隷制は続き、無給でなくとも、若干の賃金が与えられているだけとの指摘もあります。
モーリタニアは、全世界の人口の中で奴隷の割合が最も高く人口の20%だそうです。

アフリカの成長は金、ダイヤモンド、石油、鉄鋼、象牙など一次産品に支えられてきたので、「雇用なき成長」であったとも言われています。

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■マスコミが伝えない超激変のアフリカ

然しながらこの数十年でアフリカ諸国が激変したのも事実です。
ほとんどメディアは成長したアフリカの姿を伝えておらず、今でもアフリカに対し貧困と飢餓に苦しむ画一的イメージを拭えません。
本当の事を言うと、歴史と個性豊かな文化を持つアフリカはユニークでとっても面白い国ばかりです。

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<ケニア独立以来最大のインフラ開発プロジェクト>
例えばモンバサ・ナイロビ鉄道ですが港湾都市モンバサから首都ナイロビを経て、マラバを結ぶ840km。

建設資金の9割を中国が出資し、わずか3年半の工事で完成し中国の一帯一路政策の一つと言われています。
インド洋に面したケニアは、まさに東アフリカの貿易と経済の中心であり、その中でもモンバサは東アフリカ最大の貿易港で物流の拠点です。

このケニアを中心鉄道網が完成することで東アフリカは劇的に旅行しやすくなると言われています。バックパッカーの旅行好きには朗報ですね!

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■進化した先端技術

近年のアフリカでは、『リープ・フロッグ現象』といい、電気や水の通らないところでスマホ利用の急増に伴うスマホ決済が増えているそうです。
本来なら水道、電気のインフラ整備が先なのですが、スマホの急速な普及で、固定電話やインフラ整備を後押しししている状況だそうです。固定回線の整備を国の隅々に敷くより、スマホをつなぐ設備を作る方が低コストなのです。

サバンナでもスマホ!

このリープ・フロッグ現象によりケニア成人男性の納税率まで上がり、先端技術を使い段階的発展ではなく、一足飛びに発展しました。他にもアフリカ諸国では、Uberやドローンによる移送、大規模ショッピングモールが現れるなど新しい発展の姿が見られます。

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■国立公園(ナショナルパーク)自然保護区

アフリカは広大な国立公園、自然保護区が多数あります。

有名なところですと、
セレンゲティ国立公園、マサイマラ国立公園、アンボセリ国立公園、ナクル湖国立公園、ンゴロンゴロン自然保護区、エトーシャ国立公園、チョベ国立公園などなど。

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例えばタンザニアのセレンゲティ国立公園の広さは東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)を合わせた1万3404km2よりも広い、1万4763km2  ですから、その広さが想像できるでしょう。マサイ語で「果てしなく広い」 という名の通りで、草を求めて毎年数百キロにも及ぶヌーの大移動で有名です。

アフリカの国々の歴史を見ておりますと、もしかしたら自分と縁があるような国があるかもしれません。それでは早速アフリカ独立運動から近代現代の歴史をみていきましょう。来月第一回目は『アンゴラ』です。

現代アフリカを「絶望のアフリカではなく、希望のアフリカ」と伝える人がいましたがまさにその通りです。そこには暗黒の時代と、光り輝きだしたアフリカの両面があると思います。

#アフリカ資源大国 
#アフリカ経済 
#部族対立  
#独立運動  
#フェアトレード  
#アフリカ学校教育 
#資源レント 
#資源の呪い 

---------   この論文を書くにあたり、見えない世界より
多くのインスピレーションを
頂きましたことに深く感謝します

2020年1月 1日

エジプトのスィーツ『バクラヴァ』


新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

エジプトのスィーツ『バクラヴァ』をご紹介させていただきます。

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バクラヴァは、中東、トルコ、ギリシャ、エジプトで人気のある甘いお菓子です。
ただ中東のお菓子はどれもすごく甘いので食べすぎに注意。

クルミ、ピスタチオ、ヘーゼルナッツ、アーモンドなどなど好みのナッツ類をくるんで、焼き上げてから濃いシロップをかけます。今回は超お手軽レシピですから、あっという間にできてしまいます。

本場のバクラヴァは手がかかるそうで、オスマントルコ時代のスルタンが、バクラヴァの作り方を料理人に競わせたという話を聞いたことがあります。

こんなお菓子を見ていると、思わずエジプトやアフリカの歴史に思いを馳せてしまいますね ♬♬♬

最後のシロップが大事なので、必ずあつあつのパイにかけて召し上がれ(^^♪)

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なかなか美味。

【材料】
パイシート (なければ春巻きの皮)
くるみ適量
ピスタチオ適量
アーモンド適量
パンプキンシード適量
(その他好みのナッツ)
油約250ml

シロップ
(ハチミツで代用可能)
砂糖4カップ
レモン汁(あれば)4,5滴

【作り方】
春巻きを四等分に切り、中にナッツ類を置きます。
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四角形に包んで、油で黄金色になるまで揚げます。

最後にシロップもしくはハチミツをかけます。
好みで餡子を入れてもおいしいと思います。


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昨年中国~チベット~ネパールを旅した時の写真集です。
(順次アップしております)

Tibet Nepal Photo Free Download

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