原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[9]エンクルマ「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[9]
エンクルマ大統領
「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」
Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [9] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'
◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。
「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
1952年 総督の指示で、私の首相への就任が決まった。「ぜひ称号を首相に変えてほしい」依然から首相への待望の声は多くの寄せられていたのであった。
立法議会は首相への就任と拡張を6名任命し新しい政治機構ができることになった。
私たちには完全な独立に向けての最後の戦い、最後の試練が残されていた。
1953年まで憲法改正にむけて、多くの議論が交わされ、植民相との数か月に渡る交渉ののち、現在の憲法をつくる骨格になったのである。この憲法はエンクルマ憲法と呼ばれており、その憲法ができるまでの一年間私は必死になって戦い続けた。
首相としての役職が与えられ、私は以下のことを提案し、熱狂的に歓迎された。
「黄金海岸の族長と民衆が即時の自治を要求していること、イギリス議会が独立条例を直ちに通過させ、黄金海岸をガーナという新しい名称のもとに女王エリザベス二世を元首とする独立主権国家となると宣言することを、植民相を通じて女王諮問機関に要請せよ]
鍋はいつもかきまわしていないと、中身がくさるということを私は感じた。煽動をたえず続けていれば、独立という目標を達するには失敗するはずはないと確信した。
帝国主義の崩壊と独立を達成するために、民衆の啓蒙と不断の努力と続けた彼の苦労が伝わってくる。
独立した暁には、国の名をガーナとして新生することを願っていたが、その理由は彼らが古代ガーナ王国を理想とし、誇りとしていたからである。以下の歴史の記述からその根拠がうかがえる。
◆古代ガーナ王国を誇りとして
<「わが祖国への自伝」より引用 P185>
「西歴紀元の初期、イギリスが地位を獲得するはるか以前、イギリスの国民が国家を形成するよりもさらに遠い昔に、私たちの祖先は偉大な王国をつくったのであります。その王国は十一世紀までつづき、北からのムーア人の攻撃によって滅亡しました。その王国の全盛期には、
領土はチンブクツ[ニジェル河の上流、サハラ砂漠の南端にある古都、ガーナ王国の首都ガーナはその西北方にあった〕からバムコ〔チンプクッの西南方約七百キロのニジェル河畔にある。いまのマリ共和国とギニアの国境近くにある〕まで、さらに大西洋にまでひろがっていたのであります。そのガーナ王国では法律家と学者がとくに尊敬され、民衆は毛と木綿と絹とビロードの衣服をまとっていたといわれております。 銅、金、織物の取引がおこなわれ、人びとは宝石と、金と銀の武器を携えていました。
*訳註 ガーナ王国の起源は明確にはわからないが、紀元三〇〇年ごろと推定されている。最初はベルベル族が支配していたが、八世紀ごろ内乱がおこって黒人王国となり、紀元一〇七六年に滅亡した。
「私たちがガーナの名前を誇るのは、ロマンチシズムからではなくて、未来への希望としてであります。 なぜなら未来は現在から生まれますが、現在は過去から生まれているからであります。私たちには過去を恥じる必要は少しもないのであります。過去は光輝につつまれてい
るのであります。私たちの祖先がその時代に偉大な業績を成しとげたという事実は、私たちもまた、その過去から輝かしい未来を、戦争や軍備を見せびらかすためではなく、社会の進歩と平和の上に輝く未来を創造できるという確信を、私たちにあたえるのであります。私たちは
戦争や暴力を拒否します。私たちの闘いは、人間を物質欲に沈溺させる古い思想、憎悪と恐怖と非人道をつちかう愚かな無知に対する戦いとならなければならないのであります。私たちの未来の英雄は、奴隷化による人種差別の窒息するような霧の中から、光の谷間へ民衆を導くようになるでしょう。その谷間では、キリストが2000年前に約束し、そののち語り継がれるだけで
殆ど実行されなかった同胞愛が、意思と努力によって生み出されることでありましょう。
古代ガーナ王国 とは?
(山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
Ghana 7世紀頃~1240頃 西アフリカ,セネガル川上流部とニジェール川上流部の北側にまたがる地域にあったアフリカ最古の王国。最盛期は10世紀から11世紀前半。王国の経済基盤はサハラ砂漠産の岩塩と西アフリカ南部産の金の南北交易への課税であった。同地域の金は「人参のように生える」といわれたほど大量に産した。
王,廷臣,兵などは非ムスリムであったが,ムスリム商人の来訪によりイスラーム化した町もあった。
王都とされるクンビ・サレーには,ムスリムの古代都市遺跡がある。ガーナ王国は,この地域の乾燥化に伴い衰退し,1076年ないし77年モロッコのムラービト朝の軍団の攻撃により衰微したが,王都そのものはその後も100年以上商都として栄えた。現在のガーナ共和国はガーナ王国を讃えて命名された。
トンブクトゥ とは?
トンブクトゥは、11世紀前半に遊牧民トゥアレグ族の冬の季節だけの野営地が起源として始まったと考えられているが、その後、金や象牙、奴隷、塩などの交易品が行き来するサハラ砂漠の通商路において重要な中継地として都市へ成長し、この地に興隆したガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国を通じて莫大な富が集まる重要都市となった。ただし、砂漠地帯のオアシスに立地していたため、多くの人口を許容できるだけの食料や生活上の資材を確保することが困難であった。そのため、トンブクトゥに物資を供給するための都市網が後背地に発展していくことになった。
1500年代初頭、トンブクトゥの繁栄は頂点を迎え、その途方もない富の物語や伝説が伝えられたことを動機として、多くのヨーロッパ人がアフリカへの探検に向かうこととなった。16世紀の旅行家・地理学者であるレオ・アフリカヌスが、1512年に繁栄の絶頂にあったソンガイ帝国を訪れて次のような記述を残している。








