2026年5月 3日

原初の精神 -アフリカ史- ガーナ[7]エンクルマ 「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

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原初の精神  -アフリカ史- ガーナ[7]  
エンクルマ大統領

「どんな場合にも流血を避け、消して後退することなき強い力を示す」

Primordial Spirit
- History of Africa - Ghana [7] President Nkrumah, 'Avoid bloodshed in any case, and show a strong power that will not be retreated.'

◆植民地主義と黄金海岸の戦い。新興ガーナ独立史。

「わが祖国への自伝」
(祖国解放の思想)クワメ・エンクルマ著
The_National_Archives_UK_-_CO_1069-50-1.jpgのサムネール画像

◆「ガーナのために」積極行動は広がる

新しい党の最初の中央委員会は、八人の委員と議長とエンクルマの4人で構成されました。それから間もなく、エンクルマの活動のためのトラック数台を手にいれて、拡声器を取り付けました。
アクライブニングニュースと、セコンディモーニングテレグラフ、ケープコースト・デイリーメイル と共に、このトラックも彼の党の宣伝をし、民族主義の精神を伝達するのに非常に役に立ちました。
ごろつき、共産主義者というレッテルを自分たちにはった連中に邪魔されることはありませんでした。
民衆と語り、民衆の苦悩を理解していたから、この活動は成功したといえます。

<「わが祖国への自伝」より引用 P111>
自由が銀の皿に乗せられて植民地国に渡されることはありえない。自由は、はげしい、力強い戦いののちに、初めて勝ち取られるのである。植民地は教育水準が低いために、民衆の大半は文盲であり、したがって彼らの理解できる道はただ一つ---行動だけである。積極行動とは、国内の帝国主義勢力を攻撃するためのあらゆる合法的、組織的手段のことだと私は書いた。

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◆再度逮捕され幽閉される

一方で一人でも多くの指導者たちを検挙しようとして、警察はほとんど毎日党本部の手入れを行いました。私は彼らの最後の獲物になるはず。だが格子の中に監禁された仲間と同じ運命になるまえに、いろいろな人とあっておきたかっのでした。
このような時代の中で私の神経はますます強靭となり、彼らと同様最後まで頑張りとおすことができました。

1月17日にコジョ・ポチオが逮捕されて、警察署に拘留されました。私は毎日食事を差し入れた。党の総書記として彼の事務所は隅々まで捜索され、党の関係書類は全部押収されました。
アクラの街路では、秩序を回復するために、シリア人、レバノン人、イギリス人が特別警備員に任命されて、警棒が与えられました。警備員の中には棒で通りすがりの人をかたっぱしから殴って喜んでいるものもいました。
この時期多くの人が急にいなくなったが、おそらく投獄されたためだろう。

◆真っ黒いこうもりの悪夢を見る

エンクルマはある知人の家にとまったときに夜中に、非常にはっきりとした真っ黒い蝙蝠の悪夢をみたそうです。
夢の中で巨大な真っ黒い蝙蝠傘が、大きなテントのように、私の上に落ちてきて、五分ぐらい私の上に完全に覆いかぶさりました。

その間私は必至で呼吸をしようとして、もがきつづけていた。

やがてこうもり傘が遠くの方へ消えていくのが見えて、目が覚めたのです。

朝八時へその家をでて、党本部へ向かいました。本部の近くへきたときに、すぐ事件が起きたことが分かりました。
警察が建物のすみずみをかたっぱしから捜索した挙句、私の帰りを辛抱強く待っていました。
仲間は警察に殴られ私の居場所をおしえろといわれていたそうです。

二度目の逮捕をうけ警察の無線護送車に乗せられた。
そして裁判まで拘留されることになったのです。

当時はアフリカの弁護士はあまり役に立たないので、イギリスからの法廷弁護士を2人招くことになり、彼らの弁護料2000ポンドのためにエンクルマは借金をしなければならなりませんでした。

独立への気運と情熱が高まる一方で迫りくる悪の力を見抜いて、最悪の事態を避けることができればよかったのでした。
まさしく真っ黒い蝙蝠傘の霊夢は、この警官の逮捕を予兆したものだったのでしょうか。

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◆幽囚の壁を越えて

裁判が終わると三年の服役を宣告された。またもや悪夢のように、アクラに連れ戻され、ジェイムズ刑務所に入れられたが、ここはすでに10名以上の仲間が監禁されていました。
政治犯の私がふつうの犯人なみの扱いを受けることにしばらくショックを受けました。
囚人の最低限の健康と精神状態だけは維持されたいたとはいえ、これ以上悪い待遇は想像できませんでした。

すでに超満員の独房の中にバケツが一つ用意されていました。
これは十一人の囚人の便器であり、この誠に開放的な公衆便所を使用する恐るべき屈辱感になれるのにしばらく時間を要したのでした。

せめて便器をしきる一枚のゴザがあれば、品を落とさず済んだが。。

このバケツは交代で毎日洗うという嫌な仕事をさせられたのでした。
また、いつも粗悪な食べ物をあたえらていたので、胃を壊していました。

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食物は量も少なく、朝は砂糖抜きのトウモロコシの粥が一杯。昼と午後四時の夕食は、メロンを煮たものと、ケンケ(ひきわりトウモロコシ)、赤コショウを入れたガリ(メロンの粉)でした。
日曜日と水曜日は、まことに微小な肉のきれっぱしをいれた水くさいスープがでました。

しかも肉といっても見せかけで実は弾丸のように硬い。
米はぜいたく品で、病人で医師の指名した者だけでに与えられました。

刑務所に入った直後、食物があまりに悪いので、数人の仲間がハンストを始めた。
しかし私は反対だった。何の役にもたたず、逆に監獄で病気になり、体力を維持できなくなる。
逆に沢山食べなければならないと考えた。
出獄したときには、仕事は山ほどあり、病人になって出獄しては何の役にもたたないだろう。さかんに私はといた挙句ハンストは中止となった。