2021年12月 1日

原初の精神 -アフリカ近代史・現代史- セネガル

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Primordial spirit 
- African modern history / present history - "Senegal"

原初の精神 「セネガル」 

イスラム教ムリッド教団と超能力者アーマド・バンバ


アフリカ大陸の最西端に位置し、サヘル地域に属するイスラム国家です。(サヘル地域とは、サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域です)

セネガルは国民の95%がムスリムのイスラム教徒です。国名の由来は東と北の国境となるセネガル川にありその名前はウォロフ語で「我々の船」を意味するそうです。

セネガルと言えば、パリ・ダカールラリーのゴールで有名ですが、本当はこの国はかつてフランスの植民地でアフリカ最大の奴隷貿易がさかんな国でした。
この史上最悪、吐き気をもよおす奴隷貿易というものはどのように生まれ、消えていったのでしょうか。

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首都ダカールのモスク

初めて現在のセネガルに訪れたヨーロッパ人はポルトガル王国の人間で、彼らはセネガルの若者4人を通訳として拉致しました。その後ポルトガルに続いて、オランダ、イギリスが到着。金、象牙や奴隷の交易を目的に海岸地帯の主要都市の奪い合いが始まりました。

1659年にフランス王国がセネガル川の中州にサン・ルイ商館を建設。後述するゴレ島もサン・ルイ、ガンビア川と共にセネガルの悪名高き奴隷貿易の中心になっていきます。


ゴレ島  史上最悪の世界遺産

この島は1848年に奴隷貿易が禁止されるまで、300年以上の間、大西洋奴隷貿易の出発地となっていました。フランスの港湾都市ナントでは1763年から775年の10年余りで、10万人以上の奴隷が売買されたとの記述も見つかっています。ここで親子が離れ離れになり、ヨーロッパやアフリカ周辺の島々に送られたのでした。ゴレ島の館の廊下に並ばされた時、故郷アフリカ、そして家族との永久の別れを意味していたそうです。

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暗黒の組織  カトリック教会

黒人奴隷たちに対しては、ルイ14世の治世に奴隷に対して悪名高い「黒人法」が適用されました。この法律は黒人奴隷に対する奴隷主の責務をとり決め、奴隷のカトリック改宗の必要性や奴隷主もカトリックであることを規定したほか、残虐な制裁も正当化するもので多くの奴隷が命をおとしたと言われています。

またこの頃から、イスラム教の聖人達がヨーロッパ人に協力する在地の諸王国の奴隷狩りに対して反乱を起こしたが武力鎮圧されました。

セネガルには大きく4つのイスラム神秘主義の、スーフィー教団があります。即ちティッジャーニ―教団、ムリッド教団、カーディリー教団、ライエン教団です。
セネガルの独立の歴史のなかで大きな役割を果たすのが、イスラム神秘主義のムリッド教団です。

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ダカールの街

イスラム教神秘主義  ムリッド教団

ムリッド派は19世紀末にアーマド・バンバによって作られました。バンバの元にはかつての王の奴隷、貧民農耕民、為政者が集まり、現代では信徒400万人を超えると言われています。
バンバはイスラムの宗教教義の研究に専念する人でしたが、敬虔な信徒で、神の恩寵を受け奇跡を起こす人であったと言われています。

彼は植民地時代にフランス政府に弾圧され、1895年に ガボンに追放されますが、1902年セネガルに戻り布教活動を再開しました。バンバが流刑地から奇跡的に帰国したことが語られるようになったことで、ますます信仰が高まりました。

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セネガルの公園

超能力者?アーマド・バンバの教え

重要なのはバンバがガボンから戻った時期から、ムリッド教団はフランスと協調路線に切り替えだしたということです。戦って権力に逆らっても決して良い結果をまねかないことを彼は知っていました。

フランスはイスラームのムリッド教団を通じて農民に商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立し、土地の所有権を与えたと言われています。

アーマド・バンバの教えは、平和主義、勤勉、そしてマナーの美徳、そして「労働は神への道」ということを強調したと言われ、ピーナッツ畑を熱心に耕し勤勉であったそうです。
今でも彼の肖像画はダカールの街のあちこちに置かれ、セネガルの人々の心の拠り所になっています。

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アーマド・バンバ

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セネガルのムリッド教団の特色については改めて記事を設けます

1960年の独立後、ムリッド教団は独自の農場を基盤に拡大を続け、都市部にさらには海外へとそのネットワークは広がっていきました。
ムリッドは、国境を越えて独自のネットワークを構築し、セネガル国内はもとより、移動先各地にダイラ (Dahira=各地域、職場等て゛結成された信徒組織)を結成し、聖地トゥーバを中心とする宗教ネットワークを構築しています。
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1854年、軍人ルイ・フェルデルブが商館長である「総督」に就任します。セネガルは奴隷制がストップするかわりにフランス植民地になり、その頃からフェルデルブ総督のイジメが始ります。

彼は36歳の若さで総督になってから民衆蜂起があれば、その村を焼き討ちにしてしまい、反抗する村人を平定してしまいました。そして現地の諸王国を征服し、セネガル川流域をフランスの支配下に置き、商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立します。

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さらにフェルデルブはセネガル人を「セネガル歩兵」としてフランスの戦争に動員したり、下級官吏養成学校政策を推し進めてサンルイの発展に貢献しました。

現地黒人が初めて国会議員に選出

1914年には現地黒人が初めて国会議員に選出されました。
1945 年10月に実施された新憲法制定のための国民議会選挙において、フランス市民権を持たないアフリカ人が立候補し投票することができる選挙 区が各植民地に設けられました。

これにより植民地のアフリカ人がフランス本国の国民議会に代表を送ることができたのです。
これはセネガルが自由への道を歩む大きな布石であり、こうして宗主国フランスと少しずつ同じ権利を手にするようになりました。

その後セネガルは300年に渡るフランス植民地を経て、キリスト教大統領サンゴールが選出されるなど、近代化の道を歩みます。

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セネガルの歴史を見ますと、ムリッド教団が宗主国フランスと協調路線に転じた頃から、彼らは徐々に自由への権利を獲得したことが分かります。

「この暗黒の時代にもし自分が生きていたら、果たしてどう生きただろうか」と自問しますといろいろな答えが返って来ます。
例えば究極の強者の人であって「簡単ですよ、価値観を合わせるのです」といって結論から考えるような方もいます。
然しながら、その時代の価値観に合わせ近代化の道を歩む、という結論に至るまで数多の血と涙があったのです。

親子離散し奴隷になった現実を目の前に、近代化を受け入れるなんて到底難しい。。。

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余談ですが、今年私が富士山に登る途中、いろんな砂利道や岩場がありましたが、比較的光輝いた明るい岩場を選べば、躓くことなく登れたりしたのを思い出します。
暗黒の時代に、内側に心の支えになったのが、イスラム教神秘主義のムリッド教団の教えであったのです。

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